デミトリウス東方異聞録3
女の首には、黒い蛇が三重に巻き付いていた。
半透明の鱗を持つ霊体であり、女自身には見えていない。蛇は女の耳元へ口を寄せ、絶えず何かを囁いている。
女は普段と変わらない様子で、デミトリウスの前に膳を置いた。
「お食事をお持ちしました」
「その蛇は誰に付けられた」
「蛇……でございますか?」
女が首へ手を伸ばしかける。
蛇が締め付けを強めた。
女の指が止まり、表情が消える。
「私の首には、何もございません」
本人の意思ではない言葉だった。
デミトリウスが人差し指で空中に円を描いた。
淡い青色の光が細い円環となり、その内側へ十字と複数の西方文字が浮かび上がる。
阿曽沼家の者が見たこともない、西洋の魔法陣だった。
円環から放たれた光が女の首を照らす。黒い蛇の尾から伸びる霊的な糸が、部屋の外まで続いているのが見えた。
蛇は術者から命令を受け取っている。
ここで消せば、術者は異変を察知する。
デミトリウスは魔法陣を閉じた。
「下がれ」
「はい」
女は部屋を出ていった。
その首から蛇が振り返り、デミトリウスを睨んでいた。
◇
阿曽沼家では、数日前から小さな異変が続いていた。
兵糧蔵の鍵が別の者へ渡され、夜警の配置が理由もなく変更された。信辰の命令を伝える使者は、命じられていない言葉を付け加えた。
「御当主は我らを信用しておられぬ」
「重臣の中に裏切り者がいる」
「上伊達家へ内通している者がいる」
根拠のない噂が広まり、家臣たちが互いを疑い始めていた。
原因はすべて同じだった。
門を守る兵の肩。
兵糧を管理する男の腹。
信辰の書状を扱う近習の舌。
世話役の女が接触した人間には、小さな蛇霊が取り付いていた。
蛇は人間の意識へ少しずつ命令を流し込む。最初は鍵の置き場所を変える程度。次は命令を偽り、最後には味方へ刃を向けさせる。
呪術を知る者がいない阿曽沼家では、誰も自分たちが操られていることに気づけない。
呪術師は軍勢を使わず、阿曽沼家そのものを自分の手足に変えようとしていた。
日が沈むと、世話役の女が自室から出た。
目は開いているが、その足取りに本人の意思はない。蛇に導かれるまま裏庭を抜け、使われていない土蔵へ入る。
デミトリウスは女の後を追った。
土蔵の床下には、地下へ続く階段が隠されていた。
地下室の中央に、阿曽沼家へ薬師として入り込んでいた呪術師が座っていた。
男の前には、家臣たちを模した木像が並んでいる。門番、使者、兵糧奉行、重臣。そのすべてから黒い糸が伸び、中央に置かれた阿曽沼信辰の木像へつながっていた。
「明日には家臣同士が殺し合う」
呪術師は世話役の女へ語りかけた。
「混乱を鎮める者も、すでに私の蛇に吞ませた。最後に信辰を操れば、阿曽沼家は私のものだ」
「随分と小さなものを欲しがる」
声に反応し、呪術師が振り返った。
階段の前にデミトリウスが立っていた。
「なぜ、ここが分かった」
「蛇がずっと私を見ていてね。誘われてきたんだ」
呪術師は信辰の木像へ手を置いた。
地下室を埋め尽くすほどの黒い蛇が、床と壁から一斉に現れる。数百匹の霊体が絡み合い、巨大な蛇の頭を形成した。
「その身体も私のものにしてやる」
蛇の群れがデミトリウスへ殺到した。
デミトリウスは避けなかった。
無数の蛇が腕、脚、胴体へ巻き付き、耳と口から内側へ入り込もうとする。
呪術師が勝利を確信した直後、蛇の動きが止まった。
地下室から音が消える。
デミトリウスの背後に、青白い線が一本走った。
一本は円となり、円は三重に増える。内部を幾何学的な直線が分割し、外周へ無数の西方文字が刻まれていく。
床だけではない。
壁にも、天井にも魔法陣が現れた。
地下室全体が、巨大な西洋魔法の術式へ変わっていく。
灯明の火が消えた。
石壁が震え、天井から土が落ちる。
阿曽沼家の屋敷にいた馬が一斉に暴れ始め、森にいた獣たちは地面へ伏した。
呪術師は、ようやく理解した。
目の前にいるのは只者でない。人間の姿をした何かだ!
自身の術式がまるで効かないことを理解する。
「――Vincula solve」
西方の言葉が発せられた。
魔法陣が回転する。
世話役の女の首から黒蛇が引き剝がされた。
同時に屋敷中で、洗脳されていた者たちの身体から蛇霊が引きずり出される。門番の肩、使者の舌、兵糧奉行の腹。蛇だけが魂との接続を断たれ、空中へ固定された。
呪術師が信辰の木像を握り潰そうとした。
その右手が、手首から逆方向へ折れた。
乾いた音が地下室へ響く。
「ぎゃああっ!」
デミトリウスは触れていない。
呪術師の影を、魔法陣から伸びた鉄色の杭が貫いていた。影を固定された肉体は、魔法陣の命令どおりに形を変える。
二本目の杭が左腕の影を貫く。
左腕の骨が肘から飛び出した。
三本目と四本目が両脚を貫き、膝が逆向きに折れる。呪術師は立つこともできず、床へ崩れ落ちた。
「待て……私を殺せば、呪いを受けた者も死ぬぞ」
「すでに切り離した」
空中へ固定された数百匹の蛇霊が、同時に呪術師へ顔を向けた。
「お前とのつながりだけは残してある」
呪術師の顔から血の気が消えた。
デミトリウスが左手を上げる。
壁と天井の魔法陣が反転した。
「――Maleficium ad auctorem redi」
蛇霊が一斉に呪術師へ襲いかかった。
最初の蛇が口から入り込む。
次の蛇が鼻へ潜り込む。
残る蛇は耳、目、折れた腕の傷口から体内へ押し入った。
呪術師の皮膚の下を、何百匹もの蛇が這い回る。身体が内側から不自然に膨れ、骨と肉を引き裂いていく。
「やめろ! やめてくれ!」
「お前が植え付けた命令だ。最後まで受け取れ」
蛇が持ち帰ったのは呪いだけではない。
操られた者たちが感じた恐怖、混乱、疑念、苦痛。そのすべてが術者の意識へ流れ込む。
自分の家族を疑った恐怖。
主へ刃を向けさせられる絶望。
身体を奪われたまま何もできない苦痛。
数十人分の感覚を同時に与えられ、呪術師の精神が崩れ始める。
それでも気絶は許されなかった。
魔法陣から伸びた銀色の鎖が、呪術師の魂を肉体へ縫い付けている。すべての蛇が戻るまで、意識を失うことも死ぬこともできない。
「いくらお主でも百鬼夜行は止められん……」
呪術師が血を吐きながら薄ら笑いをした。
デミトリウスは無表情で見下ろす。
「百鬼夜行?なんだそれは?」
「地獄の蓋と底よ…」
最後の蛇が、呪術師の右目を押し破って体内へ入った。
膨れ上がった身体から、蛇の形に沿って皮膚が裂けていく。黒い血が魔法陣の上へ流れ落ちた。
デミトリウスが右手を閉じる。
「――Ignis animae」
呪術師の身体の内側で、青白い炎が燃え上がった。
炎は肉体ではなく、呪術を生み出していた魂から燃やし始める。口と眼窩から青い火が噴き出し、皮膚の下を走る蛇が一匹ずつ焼き切られていった。
呪術師の絶叫が地下室を揺らした。
肉が焼け、骨が弾けても、銀の鎖は魂を逃がさない。
すべての呪いが燃え尽きたところで、デミトリウスは鎖を消した。
呪術師の身体がようやく死を許される。
黒く焼けた肉体は、折れ曲がった手足に支えられたまま崩れ、もはや人間だった頃の形を残していなかった。
デミトリウスが魔法陣を閉じる。
地下室を満たしていた青白い光が消えた。
後には、解放された女と木像、そして呪術師だった黒い塊だけが残った。
「どうやら面白そうになってきたようだ」
デミトリウスは焼けた亡骸へ告げた。
「こいつの後ろに何かいるな…」




