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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の一:神殺し戦記(第1章 マカツ滅亡編)

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第6話

 不帰かえらずの森から戻って十数日。あの最初の襲撃から、二十日余りが経っていた。

 朝が来るのが、これほど恐ろしかったことはない。

 イワレビコは瓦礫の山に腰を下ろしていた。夜明け前の、藍色と灰色が混ざり合う薄暗い空の下。かつて村の象徴だった広場には、今や形を留めるものは何一つ残されていない。


 折れた柱。焦げた布の端切れ。粉々に砕けた水甕みずがめ

 ただそれだけがある。人の声はない。家畜の鳴き声もない。くすぶり続ける死の煙が、風が変わるたびにイワレビコの頬をなで、肺の奥を焦げた臭いで満たしていく。


 マカツ西のむら。人口、三百四十二人。

 昨夜、神軍の討伐隊がこの地を「清め」に現れたのだ。

 始まりは、昨日の夕刻だった。

 斥候が血相を変えて高台の宮殿に飛び込んできた時、イワレビコはただ黙々と武具の手入れをしていた。神軍の動向を読み、策を練り、四日間一睡もしていなかったが、手だけは動かしていた。止まれば、考えてしまうからだ。考えると、二十日前に死んだ者たちの、あの白い光の中に消えていった顔がありありと浮かぶ。 


「……西の邑に、神軍が」


 斥候の声は裏返り、膝は激しく震えていた。


「数は」

「五十……いや、それ以上。百は超えているかと」


 イワレビコは、砥石に当てていた刀を置いた。

 百――二十日前の戦いで倒したのは、わずか一騎(あるいは前回の本隊十二)。それを仕留める(あるいはその余波を凌ぐ)ために、こちらはナガハをはじめ多くの精鋭を失った。百を相手に、今の残存兵力で正面からぶつかれば、待っているのは全滅の二文字だ。盤面を見るまでもなかった。 


「西の邑に伝令を。即刻、森へ逃げろと……」

「既に送りましたが……」


 斥候が絶望に顔を歪め、口を濁した。


「言え」

「神軍の方が……先に着いておりました」 


 イワレビコは、音もなく立ち上がった。

 駆けつけた時、西の邑は既に終わっていた。

 丘の上から見た時、最初、空が異様に赤いのは夕焼けのせいだと思った。だが違った。村全体が、巨大な松明たいまつのように燃え上がっていたのだ。神軍の騎馬隊が村の外周を鉄の環のように囲み、逃げ出そうとする者を容赦なく中央へ追い返していた。


 追い返すだけではない。踏み潰していた。六本足の馬の蹄が、逃げ惑う赤子を、親を、何の躊躇ちゅうちょもなく肉の塊へと変えていく。


「突入する」


 イワレビコがフツノミタマの柄に手をかけた瞬間、隣にいたニニギがその腕を万力のような力で掴んだ。


「離せ」

「待てと言っている」 


 ニニギの声は低く、地を這うような響きだった。怒っているのではない。溢れ出しそうな叫びを、喉元で必死に抑え込んでいる声だ。


「今突っ込んで、何人救える。言ってみろ。あれだけの数に夜戦で突撃し、俺たちが全滅してみろ。残された城の民は誰が守る。……お前が今ここで死んだら、この地上の反撃はその瞬間に詰みなんだよ」


 わかっていた。血の出るほどわかっていた。

 だからこそ、内臓が煮えくり返るほど自分を呪った。正しい判断というものが、これほどまでに醜く、憎たらしいものだとは知らなかった。イワレビコは、動けなかった。


 丘の上、暗闇に紛れ、村が灰になるのをただ見守っていた。悲鳴が炎の爆ぜる音にかき消され、空に昇っていくのを、拳を血が滲むほど握りしめて眺めていた。


 朝になり、神軍は去った。彼らにとって、それは戦いではなく単なる「作業」に過ぎなかった。用が済めば、ただ消える。

 村に入ると、生存者はわずか十七人だった。

 三百四十二人のうち、十七人。子供が六人、女が八人、老人が三人。男は一人もいなかった。男は全員、盾になろうとして殺されたか、あるいは供物として亀裂の向こうへ消えたのだ。


 十七人は、広場の隅に寄り添い、石のように固まっていた。誰も泣いていなかった。泣くための水分さえ失ったのか、あるいはあまりの衝撃に心が壊れたのか。


 一人の子供が、ふらりとイワレビコの前に歩み寄った。

 七歳か、八歳か。顔中がすすで汚れ、服の袖が焼けて肌に張り付いている。その子が、イワレビコを射抜くような眼差しで見つめて言った。


「おとうさんは、どこへ行ったの?」


 イワレビコは、その場に膝をついた。

 答えられなかった。王だった。神を殺すと豪語した反逆者だった。だが、目の前の小さな問い一つに、彼は沈黙を突き通すことしかできなかった。子供はしばらくイワレビコを見つめていたが、やがて興味を失ったように視線を外し、炭になった自宅の跡へと戻っていった。


 村の外れでは、兵たちが死体を並べていた。指示など誰も出していない。だが皆、黙々と灰の中からむくろを掘り出し、土の上に並べていた。一人ひとりの顔の向きを揃え、崩れた体躯にむしろをかけ、手を胸の上で重ねる。


 イワレビコも、その列に加わった。

 重かった。魂の抜けた人間の体は、これほどまでに重いのかと驚くほどに。

 百二十三体目を運び終えた時、彼の動きが止まった。


 ゴトシロヌシ。この邑を治めていた、誠実な長だ。去年の収穫祭、酒に酔って「殿、うちの娘を嫁にどうです」と冗談を言っていた男。今は腹を大きく裂かれ、閉じぬ目で白すぎる空を見上げていた。


 イワレビコは震える指先で、そのまぶたを閉じた。鉄の味が口の中に広がった。

 昼過ぎ、ニニギが隣に立った。二人は並んで、土の上に整然と並べられた敗北の証を見ていた。


「次は、どうする」


 ニニギが訊いた。責める響きはない。ただ、現実を直視するための問いだ。


「わからん。……正直に言う。今は、何も見えん。村を一つ失い、多くの民を死なせた。我らが傷つけた神兵は、たった一柱もいない。奴らは飽きれば去り、俺たちのことなど歯牙にもかけていない。……これが、戦争か」

「そうだな。戦ですらない。ただの害虫駆除だ」

「なぜお前は、そんなに平然としていられる」


 イワレビコがニニギを睨むと、ニニギは少しの間を置いて答えた。


「平然としているわけじゃない。……ただ、お前ほど正直になれるほど、俺は強くないだけだ」


 イワレビコは、初めてニニギの目を真正面から見た。

 赤かった。泣き腫らしたのか、不眠のせいか。だがその奥には、消えない熾火おきびのような光があった。


「勝てないかもしれない、というのは事実だろう。だがな、ここで俺たちが膝をつけば、この死者たちはただの無駄死にになる。お前が神を殺すと言ったから、俺はここにいる。繋がってるんだよ、死んだ奴らの意志も、生き残った俺たちの明日も。俺は、お前が立ち上がるまで待つ。それだけだ」


 夕方。イワレビコは一人で村の境界まで歩いた。

 野原の始まりに、一本の巨木があった。雷に打たれたのか、幹は半分黒焦げになり、無残に裂けている。だが、その死んだような木から、鮮やかな緑の葉が芽吹いていた。

 イワレビコは、その木の前に立った。

 負けた。また負けた。丘の上で、正しい判断をして、民が焼かれるのを眺めていただけだった。正しかったことが、死ぬほど屈辱だった。


「……うあああああッ!」


 拳を、焦げた幹に叩きつけた。

 一度、二度、三度。皮が裂け、拳が血に染まっても止めなかった。痛みなど、胸の奥で荒れ狂う怒りに比べれば微風に等しい。悔しさでも、悲しみでもない。それらが混ざり合い、発酵し、神という理への純粋な殺意へと昇華した何かが、彼の中で脈動していた。

 やがて、拳が止まった。荒い息を吐きながら、彼は額を木にあてた。焦げた樹皮の匂い。


 目を閉じれば、あの子供の顔が浮かぶ。

 ――おとうさんは、どこへ行ったの。

 答えはない。だが、いつか答えなければならない。言葉ではなく、神の首という結果をもって。

 イワレビコは、目を開けた。

 夕日が、地平線を真っ赤に染めていた。今度は火災の赤ではない。明日を連れてくるための、本物の夕日だ。


 彼は深く、長く息を吐き出した。

 折れてはいなかった。これほどの地獄を見せられ、無力さを突きつけられても、腹の底の芯だけは、鋼のように冷たく、熱く残っていた。

 神を、殺す。

 声には出さない。だが、その誓いは既に彼の血肉となり、骨の髄まで染み渡っていた。

 まだ、一歩も引いてはいない。

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