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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の一:天地開闢

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第5話

イザナギは、万が一の事態に備えて護身用の剣を身に帯びていた。

 音も光もない暗闇の奥、彼はついに、最愛の妻の姿を見つけ出して声をかける。


「イザナギ、一緒に帰ろう」


 しかし、闇のなかのイザナミは、静かに首を横に振るだけだった。


「私は〇〇(……ここは欠損)を食べてしまったので、もう帰ることはできないのです。〇〇(解読不能)にお願いしてみますから、洞窟の外でしばらく待っていてください」


 イザナギは待ち続けた。だが、どれほど時が流れても彼女は現れない。

 しびれを切らしたイザナギは、禁を破り、再び洞窟の奥へと足を踏み入れた。


「……待てと言ったではありませんか」


 そこに、いた。

 上半身は人間の、だが下半身は巨大な蜘蛛の姿をしたイザナミが。


 髪は逆立ち、口は耳元まで裂け、かつての美貌など微塵もない、あられもない異形へと変貌していた。


「あなたは私の秘密を見た。……なので死んでもらって、あなたを私のコレクションにします」


 だが、石板の記述はここで既存の記紀から完全に逸脱する。イザナギは逃げなかった。いや、逃げ出さなかった。彼は恐怖を怒りでねじ伏せ、腰の剣を鋭く引き抜いたのだ。


「妻の皮を被った魑魅魍魎め、私が退治してくれよう!」


 イザナミが闇から十文字槍を繰り出す。イザナギは剣を片手に、激しい火花を散らして打ち合うこと三十合――。

 しかし、化け物の怪力に形勢不利と悟ったイザナギは、ついに反転して逃げ出した。〇〇(……ここも削り取られている)が背後に迫る。


 手近にあった山葡萄を投げつけ、さらに〇〇(解読不能)を地面から急成長させて食わせ、時間を稼ぐ。

 極限状態のなか、イザナギは最後に「桃」を投げつけた。

 すると、激しい拒絶反応を起こしたかのように、〇〇は闇の奥へと逃げ去っていった。

 満身創痍となったイザナギは、〇〇(解読不能)をもって、黄泉の国と現世の間を完全に封鎖した。

 岩の向こうから、怨嗟に満ちたイザナミの声が響く。


「あなたの国の民を、これから毎日千人殺してあげる」


 それに、イザナギが返す。


「ならば私は、毎日千五百人生もう」


 執念の言葉を言い残すと同時に、イザナギはその場に崩れ落ち、意識を失った。

 ――だが、彼にはまだ、果たすべき運命があった。死の淵にあった彼を、闇の手から救い上げた者がいたのだ。


 前野は、石板に刻まれたその最後の「名」を読み解いた瞬間、持っていたルーペを床に落とした。

 カチャリ、と静かな研究室に高すぎる音が響く。


「……嘘だろ。なぜ、この名が、日本の古墳から……!?」


 そこに刻まれていたのは、記紀の神の名ではなかった。

 ――その名は、火の神・スルト。


 イザナギが後に、この異形の火神の「腹心」として歴史の表舞台に再び現れることになるのだが……それはまだ、ずっと先のお話である。

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