第50話
山頂で、イワレビコとフツヌシが対峙した。
一刻。フツヌシが白い着流しを翻し、音もなく斬り掛けた。その直刀が描く軌道は、空間の定義そのものを滑らかに切り裂く絶対切断。
イワレビコは新しく打ち直した黒い槍でそれを受け止めるが、刃が触れた刹那、槍の周囲に展開していた重力障壁が文字通り縦に泣き別れにされて吹き飛ぶ。火花さえ置き去りにする、打ち合うこと二十合。折れた鉄の残骸を口に咥え、生身の右腕一本で神速の断頭線をいなし続ける王の執念に、最強の剣士の切れ長の瞳が微かに細まった。
「……ほぉ。我が『すべてを断つ理』に、質量の手応えを残す人間は初めてだ」
フツヌシが直刀を上段に構え、一気に決着をつけようとしたその時、高天原の最深部からアマテラスの緊急撤退命令が脳髄へ届いた。
「……邪魔が入ったか。……泥の王よ、命拾いしたな。次こそは、その首をもらうからな」
フツヌシは未練なく刀を鞘に収め、陽炎の向こうへと静かに立ち去った。
山頂に吹く風は、もはや風ではなかった。大気を焼き尽くすアマテラスの吐息そのものだ。
標高が上がるにつれ、麓で展開された医神の加護も薄まり、イワレビコの皮膚は再び赤黒く焼け始めていた。右手の槍は、天上の熱を帯びすぎて白銀に発光し、握りしめる掌からは、肉が焼ける嫌な音が絶え間なく響いている。
「……ここまで……来たぞ……アマテラス」
目の前に広がるのは、雲海ではない。天を覆う巨大な黄金の鏡面。太陽神アマテラスが展開した、地上を広域殲滅するための超巨大な凸レンズであり、神域への入り口だ。その中心、最も輝く一点に、軍師オモイカネの影が、巨大な幾何学模様となって浮かび上がっていた。
『──愚かな、イワレビコ王。ここから先は物理の領域ではない。……貴公が踏み出す一歩ごとに、太陽の重力が貴公の細胞を、魂を、限界を超えて押し潰す』
「……やってみろ。……俺の義手には、……一万の死に損ないの執念が……詰まってる」
イワレビコが一歩踏み出した。
――ずうううううんっ!!
山頂の岩盤が、彼の足跡の形に深く沈み込み、硝子化して砕け散った。オモイカネの言う通りだ。神域のレンズに近づくにつれ、世界の重力の法則が完全に狂い始めている。普通の人間の骨格なら、一瞬で大気圧に押し潰されて肉の泥へと還っているはずの絶望的な質量。
「……っ! が、は……ッ!!」
イワレビコの肺から、呼吸が強制的に搾り出される。視界が歪む。太陽の熱と重圧によって、光の直進する道さえもぐにゃりと湾曲しているのだ。
「……視えるか、オモイカネ。……光が曲がっているんじゃない。……俺の怒りが、……世界を歪ませているんだ」
イワレビコは、焼き付きかけた黒い義手の左腕を、天の鏡面へと向けて高く突き出した。義手の隙間から漏れ出すのは、もはや黄金の蒸気ではない。天上の熱線を強引に吸い込み、限界を超えた過負荷によって真っ黒な虚無へと変じた、超高密度の重力の塊だ。
――深淵出力・限界突破・「太陽喰らい」。
イワレビコの鉄の腕が、周囲の白銀の熱と光を、深淵のように猛烈に吸い込み始めた。吸い込まれたエネルギーは義手の内部で物質の定義を失い、光さえも捕らえる漆黒の渦を形成してゆく。
「……アマテラス。……お前が……光の主なら……」
イワレビコが、手にした槍をその黒い渦の最奥へと突き入れた。
「……俺は、……光さえも逃がさない……底なしの闇だ。……その喉元まで、……俺の手を届かせてやる」
重圧と重圧の衝突。山頂の空間が、限界を迎えた硝子が割れるような音を立ててぺりぺりと剥離し始めた。
その時、黄金の鏡面の奥から、これまでとは比較にならないほど巨大な「白金の指先」が、下界の乱れを今度こそ押し潰すために、天空からゆっくりと降りてきた。




