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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第2章 東征準備編)

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第51話

山頂の熱は、もはや生物が耐えられる限界を超えていた。

 アマテラスの巨大な光の指が、イワレビコの頭上から万物を圧殺せんと降り注ぐ。だが、その指先が王の黒い義手に触れる直前、世界から音が消えた。


「……視えるか、アマテラス。……ここからは、俺たちの領土だ」


 その時、麓の陣地から、地を這うような鈴の音が響き渡った。スイゼイだ。彼は両目を布で縛り、血を吐きながら最後の一振りを天に捧げていた。


 ――禁術・「日蝕の哭き」。

「……天の理よ……。……光が正義なら、……闇は深淵の慈悲だ。……喰らえ、……太陽の喉笛をッ!!」


 スイゼイの放った呪いが、イワレビコの義手が作り出した重力の渦と共鳴し、山頂の空間を黒い液体のように染め上げた。

 一瞬だった。灼熱の大気が、氷点下へと急降下する。灼熱の白夜は終わり、マカツの地には、何千年もの間訪れなかった偽りの夜が訪れた。


「な……!? 何だ、この不浄な闇は! 光の欠乏を感知している……だと!?」


 鏡面の奥でオモイカネが叫ぶ。太陽神の指は、自らが生み出した熱と光をイワレビコの闇に吸い取られ、その輪郭を失って霧散していく。


「……寒いか、オモイカネ。……これが、お前たちがごみとして捨ててきた……人間の絶望の冷たさだ」


 イワレビコは闇の中で、黄金色に輝く左目だけを頼りに槍を構えた。義手の左腕は、もはや肉体の一部ではない。吸い込んだ光を質量へと変換し、彼の背後には巨大な影が翼のように広がっていた。


 その頃、麓の本陣。医神が広げた緑の加護は、偽りの夜の到来によって新たな力を得ていた。灼熱の白夜が終わり、気温が急降下したことで、倒れていた兵士たちの体が動き始めた。ニニギの傷口も、熱地獄から解放されて急速に状態が安定しつつある。


「……殿が、やった……」


 ニニギが、サクヤに肩を借りながら夜空を見上げた。偽りの夜の星が、今は本物の星よりも美しく見えた。サクヤは何も言わなかった。ただ、ニニギの傷ついた右手をそっと握った。その手の温かさが、長い戦いの中でニニギが守り続けてきたものの答えだった。

 西の戦線では、フツヌシが突如として動きを止めていた。マカツ軍の兵士たちが警戒する中、フツヌシは刀を鞘に収め、静かに夜空を見上げていた。


「……あの闇は……」


 フツヌシの冷徹な瞳に、初めて何かが揺れた。それは驚愕でも恐怖でもない。剣士として、眼前の相手の力の質が変わったことを感じ取る、純粋な戦士の直感だった。


「……次こそは、決着をつける。……今夜ではない」


 フツヌシは踵を返し、闇の中へと消えていった。マカツ軍の西の防衛線は、フツヌシの自発的な撤退によって、奇跡的に持ちこたえた。

 後詰めでは、ツチグモとクマソタケルが退却した後の廃墟に、宗像三女神が沈黙していた。田心姫が、夜空に向かって細い手を伸ばした。


「……あの闇が……天の光を喰らっている……?」


 三女神の顔から、余裕が消えていた。神の光を食い物にして育つ闇の存在。それは彼女たちが知っている神の理の外側にある何かだった。


「……一度引く。……あの闇が何者かを知るまで、手は出せない」


 宗像三女神も、静かに海の霧へと消えていった。三方向の戦線が、同時に静まり返った。偽りの夜が、戦争そのものを一時停止させていた。

 山頂に戻る。


「……ニニギ、スイゼイ。……聞こえるか。……今だけは、太陽は俺の手の中にある」


 イワレビコが闇の中で、静かに槍を構え直した。


「……行くぞ。……夜の王として、……その喉元を穿つ」


 イワレビコが、闇を纏って跳躍した。光を失い、影となった王の槍が、太陽の核心へと肉薄する。アマテラスの顔が、鏡面の奥で初めて歪んだ。

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