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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第2章 東征準備編)

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第48話

研究室。あたりはすっかり暗くなっていた。解読を進めていた前野が呟く。


「まさか、国生みと同じ呪文が使われてたなんてな」


 天が、哭いていた。

 それは慈雨ではない。ワタツミという原初の質量を失ったことで、天上の海がその器を失い、黄金色の不純な雨となって高天原の白銀の街を汚していた。かつて無敵を誇った神々の都。そこには今、開闢以来一度も存在しなかった恐怖という名の病が蔓延り始めていた。


「……信じられぬ。ワタツミ様が……」


 宗像三女神。彼女たちの白銀の衣もまた、泥と血に塗れていた。田心姫の操る因果の糸は、激戦でぼろぼろになっていた。


「……あれは、人間ではない。……泥の中から生まれた、天を喰らう獣だわ……」


 神殿の中央。軍師オモイカネの光の円陣が、激しく明滅を繰り返していた。彼の計算は、既に限界を迎えていた。タヂカラオ、ワタツミ。彼らを失ったことで、彼が築き上げてきた論理の城壁は、内側から崩壊を始めていた。


『──計算不能。……感情という乱れの増殖が、天の理の処理能力を上回った。……これより、全神軍の優先順位を再定義する』


 オモイカネの声から、かつての無機質な余裕が消えていた。そこにあるのは、追い詰められた者が吐き出す、狂気に近い切迫感。


『もはや清めではない。……防衛だ。……高天原の全回路を閉鎖し、地上という名の地獄に、全神力を投下せよ』


 その時。神殿の最奥。これまで沈黙を守っていた太陽の扉が、静かに、しかし世界そのものを焼き尽くすような熱量を伴って開かれた。扉の向こう側から漏れ出す、直視できぬほどの黄金の光明。高天原を覆っていた恐怖の霧が、その光の一触で消し飛ぶ。


「……オモイカネよ。……貴公の論理は、もうよい」


 響いたのは、鈴の音のように清らかで、しかし全宇宙の重さを孕んだ声。


 ――アマテラス。


 太陽神の意志が、初めて高天原全体に、そして地上のイワレビコたちの肌に、絶滅の温度として伝わった。


「……神が殺されるのではない。……天が、その重みに耐えかねているのだ。……ならば、私が直々に、その泥の王を光の中へ溶かしてくれよう」


 神々が、一斉に平伏した。恐怖は、今、絶対的な熱へと変換された。

 マカツの地、北の関門。

 勝利に沸く人間軍。だが、イワレビコは空を見上げ、義手の左腕が石のように固まるのを感じていた。空に、二つの太陽が現れようとしていた。


 そして同時に、高天原の誇る最強の剣士が、音もなく近づいてきていた。

 勝利の凱歌は、乾いた砂に吸い込まれて消えた。

 海神ワタツミを討ち果たした喜びも束の間、マカツの地を襲ったのは、かつてない沈黙の暴力だった。

 空に浮かぶ太陽は、もはや慈悲を忘れていた。昼が終わり、夜が訪れるはずの時間になっても、黄金の円盤は天の頂に居座り続け、地上を白銀の熱線で焼き続けている。


「……水だ。水を、運べ……」


 イワレビコは、焼け付くような熱を帯びた義手の左腕を、泥水に浸して強引に冷却していた。気温は灼熱に達し、大気は歪み、視界の端々で陽炎が揺れている。かつて誇り高く身に纏った鉄の鎧は、今や兵士たちの肉を焼く灼熱の鉄板へと変わり果てていた。


「殿……。……もう、限界だ。……あちこちで、……奴らが倒れてる……」


 ニニギが、サクヤに肩を借りながら、掠れた声で言った。ワタツミから受けた脇腹の傷は、この酷暑で膿み始め、熱に浮かされた彼の意識を削っている。サクヤもまた、唇を真っ白に乾かせ、震える手でニニギにわずかな水を分け与えていた。


 馬は斃れ、川は干上がり、大地はひび割れていた。一万の軍勢。神を二柱までも討った最強の軍団が、一歩も動かぬ太陽に、手も足も出せず崩壊しようとしていた。


「……オモイカネ。……これが、お前の言う最適解か」


 イワレビコは、天の沼矛を杖代わりに立ち上がった。槍の柄でさえ、素手で握れば火傷を負うほどの熱を発している。


「……太陽から、……逃げ場はないわ。……この地全体が、……アマテラスの竈なのだ」


 スイゼイが、血走った目で空を睨み、銀の鈴を砂に叩きつけた。


「……視えるぞ。……アマテラスは、……俺たちの魂が、……干からびて砕ける音を楽しんでいる……」


 その時、空からオモイカネの声が響いた。かつての冷徹な響きに、今回は勝利を確信した残忍な色が含まれている。


『──イワレビコ王。計算によれば、貴公の軍が全滅するまで、あと三日。……太陽は、貴公が死ぬまで沈まない。……命の重さを説く貴公が、渇きに狂った民に食い殺される瞬間……。それをアマテラス様へ捧げるのが、私の新たな計算結果だ』

「……三日も、……待たせてやるつもりはねえよ」


 イワレビコは、義手の隙間から漏れる黄金色の蒸気を、自らの意志で冷気へと変換しようと、重圧を内側へ凝縮させた。だが、その負荷で左肩の断面から、どす黒い血が噴き出す。


「……ニニギ、……スイゼイ。……死ぬなよ。……俺が、……あの目障りな光を、……引きずり下ろしてきてやる」


 イワレビコが、ゆらりと、しかし確かな殺意を持って歩き出した。一万の者たちが灼熱の野に伏す中、彼は一人、太陽に最も近いマカツの山頂を目指す。その背を、フツヌシが追っていた。

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