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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第2章 東征準備編)

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第47話

海水が、イワレビコの足元で意志を失い、泥濘へと変わっていく。

 海神ワタツミの支配下にあった水流が、黒い義手から放たれる圧倒的な引力に屈し、その組成を強引に書き換えられていた。


「……神の理、そんなに絶対か」


 イワレビコは、右手の槍――天の沼矛を頭上でゆっくりと回転させ始めた。

 ぎち、ぎち、ぎち……。

 義手の鉄が、重力操作の負荷に耐えかねて真っ赤に熱を持ち、周囲の酸素を焼き尽くす。


「……なら、その理ごと……かき回してやるぜ」


 ――深淵極大出力・「国生みの残響」。


 槍が回転するたび、空気が、海水が、そして戦場の概念そのものが、巨大な渦に飲み込まれていく。それは単なる旋風ではない。かつて原初の神が、形なき海を攪き回し、固めて島を作った――その創造の暴力の再現だ。


「な……!? やめろ……! その音を……、……その回転を止めろッ!!」


 ワタツミが、初めて剥き出しの恐怖を顔に浮かべた。四つの腕を必死に突き出し、水圧の壁を作ろうとするが、イワレビコが槍を回すたびに、海神の身体を構成する水そのものが泥へと変質し、彼の自由を奪っていく。


「……ほら……こをろこをろしてやるぜ。……お前の海も……、……その傲慢な魂も……、……全部まとめて泥の底だ」


 イワレビコが、槍を垂直に振り下ろした。


 ――どおおおおおおおおんっ!!


 北の関門を埋め尽くしていた海水が、一瞬で結晶化した大地へと姿を変えた。逃げ場を失い、自らの水流と共に大地に縫い付けられたワタツミ。その胸元には、ニニギが最後に投げつけた折れた楯の破片が、楔のように深く突き刺さっていた。


「……信じられぬ……。……天の理が……、……泥の王に……攪き回されるなど……」

「……あばよ、海神。……俺たちの重さ、地獄まで持っていけ」


 イワレビコが槍の石突で大地を叩く。

 次の瞬間、ワタツミの巨体は、乾いた砂のように崩れ去り、北の風の中に霧散していった。

 静寂が戻った。海は引き、関門には新たな人間の土地が生まれていた。


「……殿……。……勝ったのか……?」


 ニニギが、サクヤに支えられながら、力なく笑った。


「……ああ。……お前の楯があったからだ、ニニギ」


 イワレビコは、焼き付いて動かなくなった左腕を、そっと右腕で支えた。

 神軍幹部、二人目。タヂカラオに続き、ワタツミをも討ち取ったその衝撃は、天界の計算に致命的な誤差を走らせ、地上には、かつてないほど激しく、熱い、人間たちの凱歌を響かせていた。

 だが、イワレビコは知っていた。空の向こう、黄金色に輝く太陽が、これまで以上に不気味に、そして冷酷に自分たちを見下ろしていることを。


「……来るか。……アマテラス」


 神殺しの軍勢は今、本物の天罰が降り注ぐ直前の、束の間の平和の中に立っていた。

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