第46話
宗像三女神の攻撃は、熾烈を極めた。
ツチグモとクマソタケルが率いていた兵士は全滅。二人は退却を余儀なくされた。本陣のイワレビコのもとへ、次々と敗走の知らせが届く。ニニギが無事でいてくれ。その気持ちだけが、今のイワレビコの心中にあった。
海水が、全てを飲み込んでいた。
北の関門を埋め尽くしたワタツミの死の檻の中で、ニニギは折れた楯を杖代わりに、辛うじて膝をつかずにいた。「神滅の残光」によって一時的に霧散しかけた海神の巨躯は、下界の水分を強引に吸い上げて再び肉体を再構成しつつある。ニニギの脇腹の傷からは、今も海神の呪いが注ぎ込まれ、彼の意識を闇へと引き摺り込もうとしていた。
「……まだ……だ……。……まだ、俺は……」
「無意味だ、ニニギ。貴様の楯が守ろうとしているのは、この無価値な泥の地か? それとも、己の矮小な自尊心か?」
ワタツミが、四つの腕を天に掲げた。すると、渦巻く海水の中から、一つの水球が浮上してきた。その中に閉じ込められていたのは、人間軍の補給部隊と共に北へ向かっていたはずの少女サクヤだった。
「……さ、……サクヤ……!?」
ニニギの血の気が、一気に引いた。幼馴染。共にマカツの野を駆け、イワレビコを追いかけ、いつか来る平和を信じていた、彼の守るべき理由そのもの。
「ニニギ……! 逃げて……! お願い、私のことはいいから……っ!!」
水の膜越しに、サクヤの悲鳴が響く。だが、彼女が動くたびに球体の水圧が上がり、その華奢な身体を容赦なく締め付けていく。
「……ふむ。この花が散るのが先か、貴様の心が折れるのが先か。……試してみよう」
ワタツミの指先が動き、サクヤを包む水球に、鋭利な氷の針が向けられた。
「やめろッ!! ……ワタツミッ!! 相手は俺だッ!! サクヤに手を出すなあああッ!!」
ニニギが、砕けた足で大地を蹴った。もはや理屈ではない。右腕が折れ、内臓が潰れていようとも、彼はただ一人の男として、愛する者を救うために突進した。
「……愚かだな。感情という重りは、死を早めるだけだ」
ワタツミが冷酷に腕を振り下ろした。サクヤを貫こうとする、数千の水の針。ニニギの視界が、絶望で白く染まる。
だが。
――ごおおおおおおおおおおっ!!
その瞬間、北の関門を埋め尽くしていた海水が、何者かの意志によって一瞬で割れた。二つに裂けた海流の中を、一条の黒い影が駆け抜ける。
――深淵出力・反転・「干潮」。
サクヤを包んでいた水球が、内側から爆発するように霧散した。地面に落ちそうになる彼女の身体を、黒い義手が優しく、しかし鋼のように力強く受け止める。
「……遅くなったな、ニニギ」
砂塵の中から現れたのは、全身から真っ黒な海の血を蒸気として噴き出させる男。カムヤマトイワレビコ。西の防衛線でフツヌシと刃を交えながらも、スイゼイの遠隔同調によって、北の海に自らの質量の分身を強引に割り込ませたのだ。
彼の右手に握られた黒い槍の穂先は、既にワタツミの喉元を、重力のしびれで完全に制していた。
「……と、……殿……ッ」
ニニギの目に、初めて涙が溢れた。
「……サクヤを連れて、後ろへ行け。……あとの重さは、全部俺が引き受ける」
イワレビコの灰色の左目が、黄金色を通り越して、暗い深淵の黒へと変色していた。
「ワタツミ。……俺の血の中に、お前の理が流れているなら……」
イワレビコが槍を一回転させ、大地に突き立てた。
「……その支配権、俺がまるごと奪い取ってやる」
王と海神。血の根を巡る、最終決戦の幕が上がった。




