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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第2章 東征準備編)

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第41話

その日の朝、マカツの海岸線から音が消えた。

 寄せては返す波の音が止まり、海面は鏡のように滑らかに、そして深淵のような漆黒に染まっていた。


 イワレビコは、黒い義手で自らの胸元を押さえた。義手の中の海の血が、かつてないほど激しく沸騰し、彼の鼓動を無理やり外側のリズムに同調させようとしている。


「殿! 水平線を見ろ! ……ありゃあ、霧じゃねえッ!!」


 ニニギが指差した先。漆黒の海を割って、天を衝くほどの巨大な三叉槍が三本、立ち並んで現れた。

 一人は、四つの腕を持ち、全身を濡れた黒鱗に包んだ海神、ワタツミ。もう一人は、白銀の髭を蓄え、怒れる嵐をその身に纏った、ワタツミの兄とも呼ばれる荒ぶる深海の王。二柱の海神が並び立つだけで、地上の酸素は失われ、肺の中に塩水が溜まっていくような錯覚に襲われる。


「……掃討の先陣を務める。……理に背く小魚どもに、静かなる死を」


 海面を滑るように進み出たのは、先鋒ニギハヤヒ。彼の背後に浮かぶ十種神宝の円盤は、潮風を吸い込んで青白く発光していた。

 そしてその隣には、半人半魚の異形にして、巨大な法螺貝を構えた神の落とし子、海鳴りの使いが控えている。


 ――ぶおおおおおおおおんっ!!


 法螺貝が奏でる音は、物理的な破壊音だった。衝撃波が海面を割り、沿岸の砦の石垣を一瞬で粉砕する。


「……ッ! 総員、楯を構えるな! 衝撃を逃がせ! 押しつぶされるぞ!!」


 イワレビコが叫ぶが、その声さえも立ち込める霧に吸い込まれていく。霧の中から現れたのは、三人の美しい、しかし瞳に慈悲を一切持たぬ女神たち――宗像三女神。彼女たちが舞うたびに、海水の糸が空中に紡がれ、人間軍の退路を音もなく断ち切っていく。


「逃げ場はないわ、不浄の王。……この海は、今日から貴方たちの墓標になるの」

「……ワタツミに、あの深海の王……。……天は、本気で俺たちを溺死させるつもりか」


 イワレビコは、新しく打ち直した黒い槍を握り直した。一万の軍勢。対するは、世界を呑み込む二つの海。絶望的な戦力差。だが、イワレビコの黄金の瞳は、押し寄せる津波のその底にある一点を見据えていた。


 マカツの廃墟に、一振りの潮風が吹き抜けた。それはもはや自然の風ではない。海から迫る二柱の殺気が、空気そのものを塩味に変えていた。


「……布陣は決まった」


 イワレビコが、義手の左手で地図上の三点を指し示した。彼の声は、凪いだ海のように静かだった。だが、その瞳の奥には、一万の命を預かる王の、研ぎ澄まされた孤独が宿っていた。


「……ニニギ。お前は磐井造と共に北へ向かえ。……北の関門は、ニギハヤヒと海鳴りの使いの猛攻に晒されている。……お前の楯がなければ、マカツは半日で落ちる」

「……っ。殿、本気かよ! あのばけもの二人が海から来てるんだぞ! 俺がここに残らなきゃ、あんたを誰が守るんだッ!!」


 ニニギが机を叩き、激昂する。彼にとって、イワレビコの楯であることは存在意義そのものだ。それを「離れろ」と言われるのは、死刑宣告にも等しい。


「……ニニギ。……俺を信じろ。……そして、俺が信じたお前の楯を、北の民のために使え」


 イワレビコが、義手でニニギの肩を強く掴んだ。

 ぎち、ぎち……。

 鋼の指先から伝わる、熱い拍動。ニニギはその熱に、反論の言葉を飲み込んだ。


「……ちくしょう。……分かったよ。……死なせねえ。北の民も、俺自身も……そして、あんたもだ!」

「磐井造、ニニギを頼む。……奴は熱くなりすぎる。お前の理で、奴を支えてやってくれ」

「承知いたしました、王よ。……筑紫の鉄、神の理にどこまで抗えるか、試してみせましょう」


 磐井造が静かに頭を下げる。軍議の隅で、スイゼイが血の混じった唾を吐き捨てながら、鈴を揺らした。


「……後詰めは、ツチグモとクマソタケル。……敗残兵の根性、見せてやれ。……お前たちが崩れれば、全軍が海に沈む」

「……言われるまでもねえ。……神の喉笛を噛みちぎる機会を待つのは、熊襲の得意分野だ」


 タケルが巨大な棍棒を肩に担ぎ、不敵に笑う。


「隼人の誇り、この地に埋める覚悟で参ります」


 ツチグモの声もまた、静かな決意に満ちていた。


「……行くぞ。……神軍第二次討伐軍。……天が本気なら、俺たちは絶望そのものになって応えてやる」


 マカツ軍、出陣。北へ向かうニニギの軍勢と、海を見据えるイワレビコの本陣。二つの影が分かたれた瞬間、空から一条の雷光が落ち、戦争の幕が切って落とされた。

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