第42話
地上に黒い津波が押し寄せるその頃、雲の上の聖域――高天原の最深部では、地上の惨劇とはまた異なる冷たい嵐が吹き荒れていた。
白銀の円卓を囲むのは、天の理を司る最高位の神々。その中心で、ある女神が、魔力の糸を紡ぐように冷徹な声を発した。
「……計算は出ました。これより地上全域を永久凍土とし、不浄なる細胞の活動を根底から停止させます。オモイカネの論理、および私の戦術において、これが唯一の完遂案です」
「待て。それは統治ではない、ただの埋め立てだ」
円卓の端、煤に汚れた巨躯を震わせ、一柱の神が立ち上がった。彼の右手にある重槌が、神殿の床を鈍く叩く。
「俺は、天の軍勢に最強の鎧を与えた。だが、それは神の威厳を守るためであって、地上の火をすべて消し去るためではない。……イワレビコという男の義手を見たか? あれは泥から生まれた魂だ。それをただ消すだけなら、俺の槌に存在意義はない」
「感情は不要です。天の純度は、犠牲なくして保てません」
氷のような声が返った。その瞬間、神殿の空気が凍りついた。
「……あーあ。相変わらずお硬いねぇ」
神殿の柱に寄りかかっていた若い神が、退屈そうに羽の生えた靴を鳴らした。
「情報が死んでるよ。あの軍師の計算には驚きがない。そんな世界を走るのは真っ平ごめんだ。僕は降りるよ。この戦争、勝っても負けても、つまらないからね」
「……光を失った玉座に、私の歌は必要ない」
黄金の竪琴を奏でながら、光明を司る神もまた、静かに席を立った。彼の放つ光が、高天原の広間から少しずつ引いていく。
「……正気ですか? アマテラス様への叛意と受け取りますよ」
「勝手にしろ。……俺は、俺が叩きたいものを叩くだけだ」
鍛冶の神は重槌を円卓の真ん中に放り出した。
――ずうううううんっ!!
神々の絶対的な結束が崩れた音が、神殿を揺らした。
「……下野させてもらう。……天の理が泥に塗れるのを、特等席で見物させてもらうぜ」
三柱の神が、光の粒子となって高天原から消え去る。後に残された者の顔には、初めて計算外の亀裂が走っていた。
その瞬間、地上の戦場。
海から迫るワタツミの軍勢。その先鋒を務めていた神兵たちの白銀の鎧が、一瞬、泥を塗ったようにその輝きを失った。
「……何だ? 空気が……軽くなった?」
本陣のイワレビコが、天を見上げた。
義手の左腕が、不気味なほど静かになっている。天界の供給源が断たれたことで、神の力が、わずかに生身の重さに戻り始めていた。
「……スイゼイ、視えるか。……天で、何かが壊れたぞ」
「……星が……三つ、落ちた。……ふ、ふふ……。神様も、一枚岩じゃないってわけだ……」
スイゼイが、血まみれの口元で歪んだ笑みを浮かべる。
絶望の第二次討伐軍。だが、その背後の空に、初めて人間軍が付け入るべき、真っ黒な隙間が生まれようとしていた。




