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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第2章 東征準備編)

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第40話

巨神タヂカラオが地上に散った。

 その凄絶な事実は、地上の泥を啜る不完全な人間軍に「希望」という名の狂熱をもたらしたが、同時に、天上の高天原には、開闢以来かつてない激しい屈辱と冷徹な沈黙をもたらしていた。軍師オモイカネはそれら地上のすべてを無機質に見届け、静かに引き上げていった。


 高天原の神殿。

 かつてタヂカラオが座していた高貴な席は、今は主を完全に失い、ただ不気味で冷たい天の風が吹き抜けている。天上神たちはもはや地上の人間軍を嘲笑してはいなかった。彼らがその胸に抱いたのは、未知の強毒に対するような、根源的な嫌悪と、そしてわずかな「恐怖」だった。


「……周辺の計算を完全に終了した。タヂカラオの損失は、地上における清めの効率を三割二分低下させる」


 神殿の中央、実体を持たぬ白金の光の集合体――総軍師オモイカネの声が静かに響き渡る。その無機質な音声に怒りの感情はない。ただ、壊れた一つの仕組みを事務的に修理するかのような、どこまでも冷徹な響きだった。


「下界の不確定要素イワレビコ。……彼が放つ海の血と黒鉄の重力共鳴は、天上の絶対の理を一時的に歪曲させる。……これより、対不純物用・広域殲滅戦術『三極の裁き』へと完全移行する」


 オモイカネが空中に白銀の扇を冷酷に広げると、光の粒子で編まれた地上の詳細な地図が浮かび上がった。マカツの廃墟、ハハキの村、そして筑紫の地。地上の人間軍が泥臭く結束を固めつつある三つの要衝を、巨大な白金の光の点が容赦なく包囲してゆく。


「……ニギハヤヒ、貴公は北より絶対の圧をかけよ。……フツヌシ、貴公は西よりその鋭利で全てを断て。……そして」


 オモイカネの光の視線が、地図上のどす黒く澱んだ海へと向けられた。


「……下界の澱んだ血の根を断たねば、あの王の不屈の魂は折れぬ。……ワタツミよ。深淵の底より這い出し、その不浄なる末裔を肉ごと呑み込め」


 その瞬間、神殿の白銀の床が、生き物のように激しく波打った。突如として溢れ出した漆黒の海水が、神聖な神殿の床を不浄に染め上げ、凄まじい深海の潮騒が神々の玉座を激しく震わせる。


「……くく……。面白い。天を衝こうとする地上の小魚が、我が誇り高き血を引いているとはな」


 沸き返る海水の中から、一人の異形の男がゆっくりと立ち上がった。全身を濡れた漆黒の硬質な鱗に覆われ、衣服を排した四つの強靭な腕を持つ巨神。その瞳の奥は光を拒む深海の闇そのものであり、その存在自体が、地上を物理的に押し潰すような圧倒的な水圧を放っていた。


 ――海神わたつみ


 神軍の中でも異端とされる、原初の破壊神が、ついにその重い腰を上げたのだ。

 一方、更地となったマカツの廃墟。

 イワレビコは、先の一戦で失った槍の代わりとなる、新たな無骨な得物を、黒鉄の義手で静かに見つめていた。タヂカラオとの極限の激闘によって義手は半分焼き付き、右半身は魔力の糸に刻まれた傷口でぼろぼろの満身創痍だ。だが、彼の周囲には、神への勝利を盲信する数万の民の真っ黒な熱気が狂おしく渦巻いていた。


「……殿。妙だ。あれほど執拗だった神軍の偵察が、ぴたりと止まったぞ」


 ニニギが、黒石を嵌め込んだ新しい大楯を黙々と磨きながら、不気味そうに澱んだ空を見上げた。


「……嵐の前の、静けさだ。……スイゼイ、お前の目に何か視えるか」


 案内人スイゼイは、硝子化した地面に自らの耳を直に押し当てたまま、がたがたと全身を激しく震わせていた。


「……聞こえる。遠くから……大地が、海の水を一気に啜り上げる不吉な音が……。来るぞ、イワレビコ。これまでとは決定的に違う。世界そのものが、俺たちを根こそぎ溺れさせに来ているんだ……ッ!」


 その悲壮な言葉が完全に終わるよりも早く。北の尾根、西の荒野、そして南の海――三方向の地平線の輪郭が、同時に絶対的な白金の光によって激しく染め上げられた。


 神軍の「本気」という名の凶暴な津波が、地上の人間軍が掴み取ったわずかな希望を、今度こそ根こそぎ呑み込もうと押し寄せていた。

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