第39話
昼食を済ませた前野はパイプタバコを、神崎はハイライトを取り出し、研究室のソファに深く腰掛けながら紫煙を燻らせていた。神崎が興奮を抑えきれぬ様子で口を開く。
「おい、前野! イワレビコが自分の命を盾にするなんて……! だが、なぜオモイカネはここまで彼の『生存』に固執するんだ? ただ力で抹殺すれば済む話じゃないか!」
「神崎、記紀神話という正史において、神武天皇の東征は天の神々から一方的に『祝福された旅』として美化され、描かれている。それはなぜか? 天上の王権にとって、地上を統べる倭王とは、力で単純抹殺すべき対象などでは断じてなく、天の支配の絶対的な正当性を証明するための、いわば無傷の『供物』として完全に組み込まれなければならなかったからだ。もしイワレビコがここでただの『神を呪う死体』になれば、天界が構築する世界の正統性そのものに、永久に消えない傷が残る。軍師オモイカネは、その致命的な欠陥を何よりも恐れたのさ」
遥か上空の白銀の扇が駆動を止め、空間を覆っていた魔力の糸がぴたりと完全静止した。
過酷な日没の赤い光の中で、イワレビコが自らの喉元に即死の糸を押し当て、赤い血がどろどろと滴り落ちる。その静かな、しかし狂気的な自害の構えは、完璧なる天の軍師オモイカネの演算を、一時的に完全に凍りつかせていた。
「……ほう。己の矮小な命を賭け札に、天と対等に交渉するか。虫けらの分際で、小賢しい真似を」
凄絶な静寂を破ったのは、姿なきオモイカネの声ではなかった。
おぞましい地響きと共に、瓦礫の山を力任せに掻き分けて、巨神タヂカラオが再びその姿を現したのだ。分厚い胸元には、かつてイワレビコが穿った真っ黒な大穴が痛々しく残されている。だが、その三つの瞳には、敗北の屈辱と、それを血で雪ごうとする狂気的な殺意が爛々と宿っていた。
「タヂカラオ……。お前は……まだ……」
「オモイカネの安い計算など知るかッ!! 俺は天上の武神ぞ! 貴様を綺麗な供物にする前に、我が拳でその傲慢な魂を粉砕せねば、我が誇りが気が済まぬわッ!!」
巨神タヂカラオが深く腰を落とし、巨大な右拳を後ろへと深く引いた。
それはただの物理的な構えではなかった。周囲の大気が、その巨大な拳が引き起こす絶対的な引力に猛烈に吸い込まれ、一瞬にしてハハキの村全体の気圧が急上昇してゆく。
「……ッ! スイゼイ、ニニギ、今すぐ下がれェ!!」
イワレビコが喉を裂いて叫ぶ。その直後、タヂカラオが渾身の正拳突きを正面へと放った。
――どおおおおおおおおんっ!!
凄絶な衝撃波が爆発した。
音速の壁を軽々と超えた神の拳が、周囲の空気を物理的な質量の壁へと強制変貌させ、イワレビコの全身へと容赦なく叩きつけられる。黒鉄の義手の左腕が、右半身の生身の肉が、死の糸に切り刻まれていた傷口から一斉に悲鳴を上げた。骨格が軋み、臓物が一瞬で潰れる感覚。イワレビコの肉体は、まるで見えない巨人の突進に殴り飛ばされたかのように、空中を無惨に吹き飛んでいった。
「がはっ……、あ、……」
人間の民家の壁をいくつも派手に突き破り、イワレビコは激しい砂塵の中に叩きつけられた。視界が自身の血で真っ赤に染まる。全身の神経の感覚が消え去ってゆく。
武神タヂカラオは、その破壊の余波だけでハハキの村の半分を更地へと変えながら、地響きを立てて一歩、また一歩と確実に迫ってくる。
「……終わりだ、不浄の王よ。その細い鉄の槍と共に、泥の底の中に沈め」
タヂカラオが、とどめの巨大な足を頭上へと高く振り上げる。
巻き上がる砂塵の中で、イワレビコは、ゆっくりと生への執着だけで上半身を起こした。左腕の義手は過負荷でもはやぴくりとも動かない。右足の骨も無残に折れている。だが、彼の不屈の右手には、まだ一本の槍の柄ががっちりと握りしめられていた。
主の海の血を極限まで啜り、周囲の人間の怨念を限界まで吸い込んだ天の沼矛。誇り高き穂先はとうに失われているが、その折れた鉄の残骸には、これまでにないほど深く、黒い、深海の重圧が宿っていた。
「……オモイカネ。お前は……この最悪の瞬間を、その高貴な計算に入れていたか?」
イワレビコが、血の涙の流れる灰色の瞳で、昏い天を真っ向から見上げた。
彼は折れた右足を軸に、残された人間の全身の全筋力を、唯一動く右腕一本へと極限まで集中させる。
「……俺の泥臭い海の血が、天上の傲慢な光を……根こそぎ喰らい尽くす、この瞬間をなァッ!!」
――深淵出力・極大・「万有引力天衝」。
イワレビコは、その槍を全力で天へと投げつけた。
それは単なる槍投げなどでは断じてなかった。自らの矮小な命、一万の絶望の呪い、そしてこのハハキの地の重力そのものを、一本の巨大な楔として放った、因果の完全なる逆転劇。
巨神タヂカラオが振り上げた巨大な足が、投げられた槍の残骸から放たれる圧倒的な超引力によって、空中の途中でぴたりと完全停止させられた。巨神は驚愕に三つの目を見開く。その視線の先。
折れた鉄の棒が、天上の光の速さを軽々と超えて、自らの胸元――あの真っ黒な空洞の穴へと一直線に迫っていた。
「……馬鹿な、地上の物質が……この圧倒的な、重さは……ッ!」
――ずうううううんっ!!
投げられた槍は、タヂカラオの頑強な黄金の鎧を、強靭な筋肉を、そしてその最奥にある神の絶対的な核心――心臓を、無音のまま完全に貫通した。
凄絶な、静寂。
巨神タヂカラオの三つの瞳から、急速に白金の光が失われてゆく。彼は最期に何かを言おうと巨大な口を開いたが、天上の言葉の代わりに、不浄な黄金色の血が津波のようにどろどろと溢れ出した。
三十丈を超える巨大な質量が、泥の大地へと轟然と崩れ落ちる。
――どおおおおおおおおんっ!!
絶対の神の「死」を厳かに告げる、凄絶な地響き。
それと同時に、空に浮かんでいたオモイカネの白銀の扇が、限界を超えて粉々に砕け散り、空間を支配していた数万の魔力の糸が、夕闇の彼方へと乱れて霧散していった。
立ち込める硝子の砂塵の中で、イワレビコは、槍を放ちきった右手を天に向けて掲げたまま、力尽きて仰向けに泥の中へと倒れ込んだ。
脳髄の視界が、急速に白濁してゆく。
だが、彼の不完全な人間の耳には、確かにはっきりと聞こえていた。
天上の凄絶な蹂躙が完全に止まり、奇跡的に生き残った数百の人間の民たちが、泥の上で、泥臭い「生の音」を劇的に取り戻してゆく、その完全な瞬間が。
――神殺しの王の、真なる再誕。




