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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第2章 東征準備編)

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第38話

多面体の結界が砕け散り、歓喜がハハキの村に満ちるはずだった。

 だが、粉々に砕け散った透明な膜の破片は、泥の地に落ちる前に空中でぴたりと静止し、それぞれが細く鋭利な一本の「糸」へと姿を変えてゆく。


『──計算を即座に修正する。救済の段は完全に終了した。これより、この座標における不確定要素の物理的排除を開始する』


 天の不気味な裂け目に、一振りの巨大な羽の扇が姿を現した。

 白銀の羽根が重なり合い、天上の太陽の光を冷酷に反射するその美しき扇が、ゆっくりと地上へ向けて無慈悲に振り下ろされる。

 その瞬間、澱んだ空から無数の魔力の糸が狂ったように降り注いだ。

 それは蜘蛛の糸よりも遥かに細く、しかし天の沼矛よりも鋭利な、天の論理によって研ぎ澄まされた絶対的な「切断線」だった。


「……ッ!? ニニギ、楯を!!」


 イワレビコが叫ぶよりも早く、最前列に並んでいた一軒の人間の民家が、音もなく綺麗に切り分けられた。屋根が、太い柱が、そして内部にあった家具のすべてが、まるで見えない極薄の刃でなぞられたかのように、滑らかに上下に泣き別れてゆく。


「う、うわああああああッ!!」


 逃げ惑う村人の一人の肩を、冷たい一本の糸がわずかに掠めた。

 赤い血が噴き出す暇さえそこにはない。その凄絶な切断面は一瞬にして白磁へと結晶化し、細胞の繋がりを論理的に否定された人間の肉体が、さらさらと砂のように崩れ落ちてゆく。


「ふざけんじゃねえッ! 卑怯だなんて生温い言葉じゃ足りねえぞ、この外道がァッ!!」


 ニニギが野太く咆哮し、傷だらけの大楯を頭上へ掲げた。


 ――覚醒・「不動の牙」。


 大楯から放たれる黄金色の泥臭い闘気が光の糸を強引に弾き飛ばそうとするが、魔力の糸はまるで明確な意志を持つ半透明の蛇のように、ニニギの楯の防衛の磁場を軽々と迂回し、その後方に怯む民衆へと正確に狙いを定める。


「……オモイカネ……ッ!!」


 イワレビコは黒鉄の義手の左腕を前方へと突き出し、空を激しく舞う死の糸を強引に掴み取ろうとした。


 ――深淵出力・「万有引力」。


 義手の内部から放たれた強力な引力の渦が、周囲に降り注ぐ糸の軌道を強引に自分の一点へと引き寄せる。だが、その代償はあまりにも凄まじいものだった。

 数十、数百の天の魔力の糸が、イワレビコの黒鉄の義手と、生身の右肩を容赦なくずたずたに切り裂いていく。黒い鉄の義手が激しい火花を散らして軋み、その隙間から黄金色の不浄な蒸気が、生々しい血の熱と共に噴き出した。


『無意味だ、イワレビコ王。その糸は、私の扇が振られるたびに急速に増殖する。貴公が一本の糸を掴む間に、ハハキの村の半分を塵の細切れにできる計算だ』


 空の白銀の扇が、再び大きく開かれた。今度は数千、数万の糸が、村の全域を完全に覆い尽くす絶望の網となって降り注ぐ。


「……っ……ぁ……」


 スイゼイが、血まみれの指先で銀の鈴を振ろうと必死に足掻くが、もうその薄い指には力の一片すら残されてはいない。

 地上の一万の人間軍が、ただ空から音もなく降る光の糸の前に、手も足も出せずに絶望に震えていた。


 自慢の楯も、自慢の槍も、不浄の呪文すらも、遥か高空のオモイカネには絶対に届かない。空に浮かぶ一振りの扇だけで、この地の全ての命が否定されようとしていた。


「……まだ、終わって……ねえだろうが……」


 イワレビコは、全身の肉を糸に切り刻まれながらも、折れた天の沼矛の柄を、血の滴る口に強く咥えた。

 左腕の義手は過負荷でもはやぴくりとも動かない。右半身も無数の糸に絡め取られ、一歩でも動けば骨から肉が削ぎ落とされる。だが、彼の燃え盛る黄金の瞳の奥には、天上の光に決して消されぬ人間の狂火が、まだ確かに灯っていた。


「……オモイカネ。お前のその完璧な計算には……一つだけ、致命的な欠陥があるぞ」

『……ほう。その不合理な負け惜しみ、天として聞かせてもらおうか』

「……お前は、俺を五体満足で生け捕りにするつもりなんだろう? 天上のアマテラスへの……最高の『供物』にするために、な」


 イワレビコは、自らの喉元へと、絡みつく魔力の即死の糸を、あえて右手で強く押し当てた。

 生身の皮膚がぴきぴきと容易く裂け、赤い人間の血がどろどろと柄を伝って流れ落ちる。


「……ここで、この俺が自ら『零』になれば……お前たちのその高貴で完璧な計画は……一体どうなると思う?」


 遥か上空、白銀の羽根の扇が、その駆動を完全に停止させた。

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