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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第2章 東征準備編)

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第37話

陽が、完全に沈み始める。

 過酷な茜色の夕陽が、結界の幾何学模様を不気味に反射し、ハハキの村を包み込む透明な膜は、不吉な琥珀色から刺すような赤へと急速にその色を変えていた。


 結界の向こうの村人たちは依然として静止したままだ。だが、膜の表面を走る光の文様の変化する速度が、日没の刻限に向けて確実に加速している。


「……残り、半刻か」


 ニニギが壊れかけた拳を強く握りしめ、自らの膝を力任せに叩いた。大楯を構えて飛び込むことさえ許されぬ圧倒的な無力感が、戦士の頑強な心を削り殺していた。


「……スイゼイ、視えたか」


 イワレビコは、結界の前に座したまま微動だにしない。彼の左肩の黒鉄の義手は、膜から漏れ出す天上の傲慢な論理を拒絶し、かち、かちと時計の秒針のような、不気味な異音を一定の間隔で立てていた。


「……ああ、……耳が、完全に腐りそうだ」


 スイゼイが、顔中の穴という穴からどす黒い血を流しながら、右手にあった銀の鈴を砂の上に転がした。


「……あの結界は、中にいる村人の心臓の鼓動を、同期の要として逆利用している。膜を外から叩けば、その振動の余波が直接、誰かの鼓動を強制停止させる最悪の仕組みだ」

「……なら、どうすればいい。あいつの言う通り、俺がここで誰が死ぬかのどちらかを選ぶのを待つしかないのか」

「……いや。計算には必ず『余り』が出る。オモイカネは人間をただの処理数だと思っているが……地上の人間の命は、奴らの数式ごときで割り切れるほど、綺麗じゃない」


 スイゼイが、震える指先で自らの胸元を深く抉り、一掴みの生々しい海の血を砂の上へと撒いた。


 ――禁術・「共鳴の逆位」。


 スイゼイが、声にならぬ凄絶な叫びを上げた。彼が放ったのは、結界を外から破壊するための力などでは断じてない。オモイカネの計算の中に、スイゼイという不純な最大の乱れを無理やり割り込ませるための、自己崩壊を伴う呪文だった。


 りん、りん、りんっ!!


 砂の上に転がった銀の鈴が、主の意識とは無関係に、激しく金属音を鳴らす。

 次の瞬間、ハハキの村を覆う透明な膜に走る幾何学模様が、一箇所だけ激しく明滅を始めた。


『──何をした、不浄の巫師よ。……天の論理に不備は存在せぬはずだ。……その異常な乱れは、計算外だ』


 虚空に響くオモイカネの声に、初めて微かな「揺らぎ」が混じる。


「……オモイカネ。お前は……この村にいる、生きた赤ん坊の泣き声の波紋を……その高貴な計算に入れたか?」


 スイゼイが笑った。口からどす黒い血の塊を吐き出しながら、それは天の予測を内側から崩した、狂者の完全な笑みだった。


「……今だ、イワレビコ! あの明滅している座標……あそこだけは、生と死の境が……まだ確定していない!!」

「……よくやった、スイゼイ」


 イワレビコが、泥の上に毅然と立ち上がった。彼は右手の槍をあえて構えない。代わりに、黒鉄の義手の左腕を、激しく明滅する光の膜へとゆっくりと近づけてゆく。


「……オモイカネ。お前は定数を信じているが、俺は地上の『重さ』を信じている」


 イワレビコが、黒鉄の鉤爪で明滅する膜へと直に触れた。


 ――深淵出力・「沈降」。


 義手から放たれたのは、単純な破壊のエネルギーではなかった。結界の乱れの一点に対して、一万の人間軍が抱く底なしの怨念の重圧を、針の先ほどの一点へと極限まで凝縮して叩き込んだのだ。


 ――ぴきぃぃぃぃぃぃんっ!!


 多面体の透明な膜に、凄絶な一本のひび割れが走った。それは数式が導き出した結果などではない。計算の限界を完全に超えた物理的な人間の重圧が、天上の論理の壁を強引にへし折った、物質の軋む音だった。


『……命の消失を感知。……だが、該当する死亡者が存在しない? どこだ、誰の命が死んだ!?』

「……誰一人、死なせてたまるかよ」


 イワレビコは、黒鉄の義手の指を結界の亀裂の中に深くねじ込み、その隙間を人間の力任せに横へと大きく引き裂いた。

 黄金色の不浄な蒸気が爆発的に吹き荒れ、オモイカネの幾何学模様が、砂嵐のように乱れて霧散していく。


 日没の、まさに寸前。

 ハハキの村を包んでいた死の多面体が、音を立てて完全に崩壊した。


「……あ、……ぁぁ……」


 先ほどまで静止していた数百の村人たちが、一斉にその場に崩れ落ち、泥の上の人間らしい呼吸を劇的に取り戻してゆく。

 イワレビコは、引き裂いた結界の残骸の中で、膝をつくスイゼイの分厚い肩をしっかりと右腕で抱きとめた。彼の黒鉄の義手は過負荷で凄絶な熱を持ち、指先からはぱちぱちと黒い火花が散っている。


「……スイゼイ。生きているか」

「……うるさい、イワレビコ。耳鳴りが……さっぱり止まらん……」


 人間軍の、完全な勝利。

 だが、安堵した彼らの背後の空には、無数の天の眼がさらに輝きを増して、不気味に現れていた。


『──興味深い。感情という大きな乱れが、天の論理を一時的に凌駕したか。……ならば、次からはその感情の揺らぎすらも織り込んだ、より残酷な計算を用意しよう』


 姿なき軍師オモイカネの声は、地上の不浄を根絶やしにするための、次なる殺戮の計算を、暗い空の向こうで既に開始していた。

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