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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第2章 東征準備編)

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第30話

神は、もはや地上の清掃を辞めていた。

 かつてのマカツの決戦から数ヶ月。地上の景色は、絶望という名の冷徹な絵具によって完全に塗り替えられていた。


 空の亀裂からは、もはや一柱の刺客ではなく、万を超える白銀の装甲兵――神軍本隊が、光の滝のように地上へと絶え間なく降り注いでいた。彼らは一切語らず、笑わず、ただ機械的な精密さで人間の村々を包囲し、一軒残らず白磁へと結晶化させて消滅させてゆく。


「……南のムラが、また一つ完全に消えたか」


 マカツの廃墟から数里離れた、峻険な岩山の砦。

 イワレビコは、黒鉄の義手の左の指先を強く握り込み、眼下に広がる炎上する大地を冷徹に見つめていた。彼の左肩に繋がれた義手は、今や鈍い黒光りを放ち、彼の体内の海の血と完全に同化している。右手にがっちりと握られた天の沼矛の穂先には、神を殺すごとに増していく、逃れようのない絶対的な重圧が宿っていた。


「殿、報告です。南西の三つの里が、同時に沈黙しました。生き残った民がこちらへ向かっていますが、神軍の猟犬に追いつかれるのはもはや時間の問題かと」


 ニニギが、黒石を溶接した新しい大楯を背負い直しながら言った。

 彼の顔には、数え切れないほどの凄絶な傷が増えている。一万の人間軍を率いる将としての重圧が、その肩を以前よりも逞しく、そして険しく変貌させていた。


 イワレビコは応えなかった。彼の耳には、遠くの地平から響いてくる無数の人間の悲鳴が届いている。以前の彼なら、迷わず右手の一本槍で戦場へと飛び出していただろう。だが、今の彼は王だ。一人の命を救うために軽率に動けば、後ろに控える数万の軍勢がそのまま全滅の道連れになる。


「……スイゼイ。神軍の動きが、これまでと決定的に違う。統制が取れすぎている」

「……気づいたか。視えるぞ。空の向こうに、神の言葉を冷徹な数式に変えて配置する、巨大な『脳』がいる」


 スイゼイが、血の滲む包帯にまみれた指で、どんよりと曇った天を鋭く指差した。

 雲の切れ間、巨大な白金の光の円陣がゆっくりと、不気味に回転している。それこそが、神軍の総軍師オモイカネが張り巡らせた、地上のすべての反逆を監視する天の眼だった。


「これまでの神は、俺たちを単なるごみとして処理した。だが、今は違う。奴らは俺たちを明確な『敵』として認識し、根絶やしにするために冷酷な策を練っているんだ」


 イワレビコは、天の沼矛を岩盤の地面に強く突き立てた。

 その時だった。砦の正門を、一人の人間の伝令が血まみれになって必死に駆け込んできた。


「イ、イワレビコ王……! 逃げてください! 北の関門が、一撃で……わずか一撃で木っ端みじんに粉砕されました!」

「何だと? あそこには磐井の三千の精鋭と、俺の部下たちが並んでいたはずだぞ!」


 ニニギが驚愕に声を荒げる。


「違います……! 武器でも、天の法術でもない。ただ……巨大な、ただの手が、山ごと関門を握りつぶしたのです……!」


 ――どおおおおおおんっ!!


 伝令の悲鳴を裏付けるように、砦の背後に聳える巨山が、凄絶な音を立てて内側から崩壊した。

 巻き上がる凄まじい砂塵の中から現れたのは、黄金の鎧さえ纏わぬ、剥き出しの圧倒的な筋肉の塊だった。

 身の丈、十丈を超える、白磁の巨神。

 巨神が、その巨大な三つの眼球で岩山の砦を冷徹に見下ろした。ただそこへ立ち上がったというそれだけで、上空の雷雲が物理的に霧散していく。


「不浄なる……小利口な虫ども。我が名は、タヂカラオ。天の戸を引き開け、地の闇を肉ごと握り潰す者なり」


 巨神の圧倒的な質量を持つ拳が、ゆっくりと、無慈悲に振り上げられた。それは武術でも法術でもない。ただの、空間ごと全てを圧殺する「質量の暴力」そのものだった。


「……ニニギッ!!」

「分かってる! 野郎ども、黒石の楯を噛み合わせろ! 死ぬ気で、骨の髄まで踏ん張れェ!!」

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