第29話
マカツの地は、この世の終わりのおぞましい縮図だった。
ニニギ率いる一万の地上の人間軍が、神殿から際限なく溢れ出す白金の神兵と泥を啜り合い、互いの血の海を泳いでいた。スイゼイが口から黒い血を吐きながら鈴を振り、天上の法を狂わせる。ニニギの巨大な大楯が磐井の鉄騎兵を先導し、神兵の強固な陣形を内側から食い破る。
だが、その激しい混沌の中心だけは、不気味なほどに冷たい静寂が支配していた。
「……面白い。……面白いぞ、泥の王よ」
神軍将軍タケミカヅチが、傲然たる不敵な笑みを浮かべた。彼が掲げた大槍の穂先から、純白の雷が地を這い、周囲の空間を無慈悲に結晶化させていく。
「一万の呪い、海神の血、精度を増した人間の鋼の腕。全てをもって、天の武を試そうというのだな。いいだろう。……これは清めではない。我らが荒ぶる魂、その全身の質量をもって、貴様を粉砕してくれよう」
タケミカヅチが大槍を硝子化した地面に突き立てた。
――どおおおおんっ!
苛烈な雷光が爆発した。だがそれは、イワレビコへ放たれたものではなかった。タケミカヅチ自身の巨体が純白の雷に飲み込まれ、急速に収縮し、次の瞬間、爆発的に膨張したのだ。毛皮が、骨が、肉の結合が、神話的な超速度で再編されていく。
白金の雷光の中から姿を現したのは、身の丈十丈を超える巨大な三つ首の犬だった。かつて見せた不完全な獣の姿とは違う。あれはただの断片に過ぎなかった。今、眼前に聳え立つのは、タケミカヅチという武神の凶暴な獣性が、戦場の血を啜って完全なる肉体を得た、真なる「天の猟犬」だった。
――おおおおおおっ!!
三つの首が同時に、天を裂く咆哮を上げた。その凄絶な声波の圧力だけで、周囲にいた神兵も人間も、等しく肉体を圧殺され、霧散していく。
「……来い、天の化け物」
イワレビコは、黒鉄の義手の左腕をぎち、ぎちと耳障りに鳴らし、右手の天の沼矛を低く構えた。黄金色に狂おしく燃え上がった灰色の左目が、巨大な白い獣の核を正確に射抜く。
天の猟犬が動いた。俊敏。あまりに神速。巨大な白金の質量が、音速の壁を軽々と超えて肉薄する。
イワレビコは、黒鉄の義手の左腕を地面に向けて真っ直ぐに突き出した。
――重圧・深淵。
義手が増幅した海の血の圧力が、天の猟犬の真下の空間を一瞬にして深海の重圧へと書き換えた。猟犬の巨大な前脚が泥の中に深く沈み込み、その絶対的な突進速度がわずかに鈍る。その刹那、イワレビコは右手の長槍を狂おしく繰り出した。
――一閃。
鉄の穂先が、猟犬の右首に固定された笑顔の仮面を粉砕した。黄金色の神血が激しく噴き出す。だが、獣は止まらない。中央の首が、凶暴な雷光を纏った顎で、イワレビコの胴体を噛みちぎらんと迫る。
イワレビコは、砕けた仮面の破片を、黒鉄の義手の鉤爪で強引に手繰り寄せ、鷲掴みにした。
――喰らえ。
義手の神経を通じて、イワレビコ自身の海の血と、地上の群衆が抱く一万の呪いを、獣の体内に直接流し込む。体内の回路で、天上の純白の雷と地上の真っ黒な怨念が激突し、肉を引き裂く不快な爆発音を立てた。
「……が、あ、ァァッ!!」
天の猟犬が激しく悶え苦しみ、残された二つの首から狂ったように雷のブレスを吐き散らした。マカツの占領地が、白光と暗黒の巨大な渦に飲み込まれていく。
イワレビコは、自らの生身の身体が白光に焼けるのを完全に無視し、再び岩場を高く跳躍した。義手で中央の首を固定し、右手の槍の全質量を、その胸元の心臓へと向けた。
「……天の理が、地に落ちる……音が……聞こえるか」
イワレビコは、全身の骨が粉砕される反動を覚悟の上で、長槍を深く突き下ろした。
――断。
槍の鉄の穂先が、白金の毛皮を、強固な鎧を、そしてその奥にある武神の絶対的な核心を、真っ向から穿ち抜いた。
――どおおおおんっ!!
マカツの全域を完全に包み込む、凄まじい大爆発。天上神の光も、地上の闇も、人間も神も、全てがその理不尽な爆風によって地平の果てまで吹き飛ばされた。
やがて、おぞましい静寂。
硝子の煙が収まった後、そこには底の見えぬ広大な穴だけが残されていた。一万の軍勢も、逆さ吊りの神殿も、武神フツヌシも、ニニギも、スイゼイの姿も、そこにはもう誰もいない。ただ、真っ黒な灰が雪のように降り注ぐ中、二人の男だけが、血と泥の中に座り込んでいた。
イワレビコ。彼の左肩に繋がれていた黒鉄の義手は、神の膨大なエネルギーの逆流に耐えきれず、完全に粉砕されて消え去っていた。右手の槍も半ばから折れ、誇り高き穂先は失われている。全身の肉を酷く焼かれ、両目から血の涙を流しながら、彼は辛うじて人間としての光をその右目に留めていた。
そして、その眼前に。タケミカヅチが、人間の戦士の姿に戻り、泥の上に膝をついていた。彼の大槍は地面に虚しく転がり、高潔だった軍服は泥にまみれ、その分厚い胸元には、イワレビコが穿った真っ黒な空洞がぽっかりと空いていた。黄金色の血が、灰の上にどろどろと滴り落ちる。
タケミカヅチは自らの胸の空洞を見つめ、やがてゆっくりと顔を上げた。虹彩も瞳孔もない灰色の瞳に、初めて、人間に対する驚愕と、そして確かな「承認」の色が浮かんでいた。
「……面白い人間だ」
タケミカヅチの声は、掠れた遠い雷鳴のようだった。
「我らの武を、理を、その泥にまみれた不条理な執念で、ここまで穿つとはな。……イワレビコよ。誉めてやろう。貴様は、天が明確に認める『敵』となった」
「……」
「だが、勘違いするな。我らは、天の執行者に過ぎぬ。貴様が穿ったのは、天の表面に過ぎんのだ」
タケミカヅチの肉体が、ゆっくりと黄金色の光の粒子となって崩れ始めた。彼は最期に、イワレビコの背後、ゆっくりと閉じていく天の亀裂を見つめた。その瞳に宿る、底なしの恐怖と、そして奇妙な歓喜。
「……天は、お前を必ず殺す」
タケミカヅチの身体が、完全に光の粒子となって霧散した。
後に残されたのは、左腕を再び失い、泥の中に沈んだ一人の満身創痍の王。
そして、神に勝利し、しかし、真なる天の怒りを買った、この世界の巨大な呪いだけだった。
「……ああ。……上等だ」
イワレビコは、折れた槍を杖代わりに、強引にその身を立ち上がらせた。
天の亀裂は、もう完全に閉じていた。だが、その遥か向こう側から、これまでに出会ったどの神兵とも比較にならぬほどの、圧倒的な「殺意」が、地上を冷徹に見下ろしているのを、彼は確かに肌で感じていた。
復讐は、終わった。だがそれは、地上の人間と天の、真なる戦争の幕開けに過ぎなかった。
王でもなく、怪物でもなく、ただの神殺しの人間が、一人。
泥と黒い灰が降り注ぐ荒野で、閉じた天を鋭く睨みつけ、再び一歩を歩み出した。




