第26話
研究室の机の上では、着々と古代石板の解読が進んでいた。剥き出しの文字を凝視していた神崎が、興奮に声を上げる。
「おい、前野! この記述の素材、マカツの鉄と隼人の硬木、そして神の血……。これ、のちの歴史において大和王権の最高機密とされる呪術武具『盾持麻呂』、あるいは『隼人の盾』の真の原型じゃないのか!?」
解読の休憩を挟んでいた前野が、愛用のパイプタバコをふかしながら静かに返した。
「ああ、神崎、その通りだ。正史である『記紀』において、隼人は天皇の近衛として『盾』を持って従順に仕える民と書かれている。だが、この『倭王年代記』が明かす真実は真逆さ。彼らは従順だったんじゃない。イワレビコの黒鉄の義手をメンテナンスし、天の光線を完全に無効化する黒石の楯を供給し続けた、対神連合軍の最高機密兵器の開発者たちだったんだよ」
夜明け前、隼人の里を深く包んでいたのは、凶暴な潮騒の音すら掻き消すようなおぞましい地響きだった。
里を囲む峻険な断崖の尾根。そこに現れたのは、天上の銀色の神兵ではない。
荒ぶる獣の皮を纏い、顔面を赤黒い泥で塗った凶暴な戦士団――「熊襲」。
そして、整然とした鉄の陣形を組み、重厚な装甲で身を固めた筑紫の精鋭――「磐井」。
合わせて五千を超える地上の軍勢が、蟻の這い出る隙もないほどに、隼人の里を完全に包囲していた。
「……神の手先か。いや、神の絶対の前に尊厳を売った、哀れな猟犬どもか」
里の広場の中央、イワレビコは新たに接合された黒鉄の義手の指を、一つずつ確かめるように深く握り込んだ。
ぎち、ぎち……。
鋼と人間の神経が擦れ合う、鈍く冷徹な金属音が静寂に響き渡る。左肩の凄絶な断面からは、今も黒い怨念が義手の隙間を縫って、陽炎のように不吉に立ち上っていた。
「イワレビコよ! その首を大人しく差し出せ!」
崖の上から、磐井の将が傲然と吠えた。
「お前一人が無謀にも神に抗ったせいで、我らの国は天からの『供物』の倍増を命じられたのだ! お前のその首こそが、我らが今日を生き延びるための、唯一の献上品だ!」
その冷酷な言葉を聞いた瞬間、里に集まっていた敗残兵たちの中に激しい動揺が走る。
自分たちの抵抗のせいで、罪なき他者が苦しんでいるという凄絶な加害者意識。それは、神の物理的な暴力よりも深く、確実に人間の心を折る呪いだった。
「……ニニギ。下がっていろ」
イワレビコは、黒石の楯を構えようとしたニニギを片手で静かに制し、ただ一人で軍勢の前に歩み出た。
右手には天の沼矛。左手には、隼人の知恵が詰まった黒鉄の義手。
「……供物を捧げて、いつまで生き延びるつもりだ」
イワレビコの声は低く、しかし里の隅々にまで鋭く届くほどに響き渡った。
「明日、その供物がお前自身や、お前たちの愛する子供に変わるだけではないのか」
「黙れ! 今この瞬間を生きられぬ者に、明日などないわッ!!」
熊襲の戦士たちが、悲壮な咆哮と共に断崖を激しく駆け下りてきた。彼らは野獣のような俊敏さで、鋭利な石斧や投げ槍を容赦なく放ち、王の肉体を狙う。
イワレビコは、黒鉄の義手の左腕を、泥の地面に向けて真っ直ぐに突き出した。
――圧。
義手の内部に秘められた海の血の重圧が、物理的な強烈な衝撃波となって空間へと放射された。
突進してきた熊襲の突撃兵たちが、まるで見えない深海の巨人に踏みつけられたかのように、砂の中に無様に叩きつけられる。
「な……!? 何だ、この常軌を逸した力は!」
「……次は、槍だ」
イワレビコは右手の長槍を、一寸の狂いもなく磐井の将へと向けた。
黒鉄の義手で槍の柄をがっしりと固定し、己の背骨のばねを穂先の一点へと極限まで集中させる。
――穿て。
放たれた一突き。
槍は空気を切り裂くのではなく、空間の密度そのものを圧縮して一直線に進んだ。磐井の将が絶対の自信をもって掲げていた重厚な鉄の楯を、その鉄の穂先は紙のように容易く貫き、その兜の飾りを鮮やかに弾き飛ばした。
殺してはいない。だが、その一撃に込められた圧倒的な格の違いに、押し寄せていた五千の軍勢が、水を打ったように静まり返った。
「……俺を殺して神に媚びを売りたいなら、今すぐそうしろ。だが、俺を殺した後に貴様らに残されるのは、また元の家畜としての日々だけだ」
イワレビコは、黒鉄の義手の鉤爪で、槍の鈍い刃を静かになぞった。
ぱちぱちと黒い火花が不吉に散る。
「……俺と共に来い。神を殺し、供物のいらぬ世を創る。そのための盾に、お前たちのその命を俺に貸せ」
長い沈黙。
ただ激しい潮騒の音だけが響く中、熊襲の戦士の一人が、ゆっくりと己の石斧を地面に置いた。
一人、また一人と、磐井の重装兵たちも槍を下げ、片腕の王を畏怖の目で見つめた。彼らが本心で求めていたのは、神への惨めな生け贄の座などではない。理不尽な天と戦って死ぬ尊厳を与えてくれる、真の強者だったのだ。
「……マカツの……いや、人間軍の王よ」
磐井の将が、傷ついた兜を脱ぎ捨て、泥の上に膝をついた。
「我ら五千の命、あなたのその槍に預けよう。……家畜のまま無音に死ぬのは、もう御免だ」
イワレビコは振り返らず、ただ澱んだ北の空を見上げた。
南の果ての民、隼人。そして、ここに寝返った熊襲と磐井。
地上の人間軍は今、天上の法を呑み込むための、万を超える巨大な呪いの塊へと急速に膨れ上がった。
――マカツへの帰還。
それはもはや、無残な敗走などでは断じてない。天上の白金の王座を根こそぎ呑み込むための、真っ黒な「津波」の始まりだった。




