第37話
陽が、完全に沈み始める。
過酷な茜色の夕陽が、結界の幾何学模様を不気味に反射し、ハハキの村を包み込む透明な膜は、不吉な琥珀色から刺すような赤へと急速にその色を変えていた。
結界の向こうの村人たちは依然として静止したままだ。だが、膜の表面を走る光の数式のスクロール速度が、日没の刻限に向けて確実に加速している。
「……残り、半刻か」
ニニギが壊れかけた拳を強く握りしめ、自らの膝を力任せに叩いた。大楯を構えて飛び込むことさえ許されぬ圧倒的な無力感が、 戦士の頑強な心を削り殺していた。
「……スイゼイ、視えたか」
イワレビコは、結界の前に座したまま微動だにしない。彼の左肩の黒鉄の義手は、膜から漏れ出す天上の傲慢な論理を拒絶し、カチ、カチと時計の秒針のような、不気味な異音を一定の間隔で立てていた。
「……ああ、……耳が、完全に腐りそうだ」
スイゼイが、顔中の穴という穴からどす黒い血を流しながら、右手にあった銀の鈴を砂の上に転がした。
「……あの結界は、中にいる村人の心臓の鼓動を、システム同期のクロックとして逆利用している。膜を外から叩けば、その振動の余波が直接、誰かの鼓動を強制停止させる最悪の仕組みだ」
「……なら、どうすればいい。あいつの言う通り、俺がここで誰が死ぬかのどちらかを選ぶのを待つしかないのか」
「……いや。計算式には必ず『余り』が出る。オモイカネは人間をただの処理数だと思っているが……地上の人間の命は、奴らの数式ごときで割り切れるほど、綺麗じゃない」
スイゼイが、震える指先で自らの胸元を深く抉り、一掴みの生々しい海の血を砂の上へと撒いた。
――禁術・「共鳴の逆位」。
スイゼイが、声にならぬ凄絶な叫びを上げた。彼が放ったのは、結界を外から破壊するための力などでは断じてない。オモイカネの計算数式の中に、スイゼイという不純な最大のエラーを無理やり割り込ませるための、自己崩壊を伴うハッキング呪文だった。
リン、リン、リンッ!!
砂の上に転がった銀の鈴が、主の意識とは無関係に、激しく金属音を鳴らす。
次の瞬間、ハハキの村を覆う透明な膜に走る幾何学模様が、一箇所だけ激しく明滅を始めた。
『――何をした、不浄の巫師よ。……天の論理に不備は存在せぬはずだ。……その異常なノイズは、計算外だ』
虚空に響くオモイカネの電子音声に、初めて微かな「揺らぎ」が混じる。
「……オモイカネ。お前は……この村にいる、生きた赤ん坊の泣き声の周波数を……その高貴な計算に入れたか?」
スイゼイが笑った。口からどす黒い血の塊を吐き出しながら、それは天の予測を内側からハックした、狂者の完全な笑みだった。
「……今だ、イワレビコ! あの明滅している座標……あそこだけは、生と死の定数が……まだ確定していない!!」
「……よくやった、スイゼイ」
イワレビコが、泥の上に毅然と立ち上がった。彼は右手の槍をあえて構えない。代わりに、黒鉄の義手の左腕を、激しく明滅する光の膜へとゆっくりと近づけてゆく。
「……オモイカネ。お前は定数を信じているが、俺は地上の『重さ』を信じている」
イワレビコが、黒鉄の鉤爪で明滅する膜へと直に触れた。
――深淵出力・「沈降」。
義手から放たれたのは、単純な破壊のエネルギーではなかった。結界のバグの一点に対して、一万の人間軍が抱く底なしの怨念の重圧を、針の先ほどの一点へと極限まで凝縮して叩き込んだのだ。
――ピキィィィィィィンッ!!
多面体の透明な膜に、凄絶な一本のひび割れが走った。それは数式が導き出した結果などではない。計算機の限界を完全に超えた物理的な人間の重圧が、天上の論理の壁を強引にへし折った、物質の軋む音だった。
『……生命定数の消失を感知。……だが、該当する死亡者が存在しない? どこだ、誰のコードが死んだ!?』
「……誰一人、死なせてたまるかよ」
イワレビコは、黒鉄の義手の指を結界の亀裂の中に深くねじ込み、その隙間を人間の力任せに横へと大きく引き裂いた。
黄金色の不浄な蒸気が爆発的に吹き荒れ、オモイカネの幾何学模様が、砂嵐のようにノイズを起こして霧散していく。
日没の、まさに寸前。
ハハキの村を包んでいた死の多面体が、音を立てて完全に崩壊した。
「……あ、……ぁぁ……」
先ほどまで静止していた数百の村人たちが、一斉にその場に崩れ落ち、泥の上の人間らしい呼吸を劇的に取り戻してゆく。
イワレビコは、引き裂いた結界の残骸の中で、膝をつくスイゼイの分厚い肩をしっかりと右腕で抱きとめた。彼の黒鉄の義手は過負荷で凄絶な熱を持ち、指先からは真っ黒な火花がバチバチと散っている。
「……スイゼイ。生きているか」
「……五月蝿い、イワレビコ。耳鳴りが……サッパリ止まらん……」
――人間軍の、完全な勝利。
だが、安堵した彼らの背後の空には、無数の天の眼がさらに輝きを増して、不気味に現れていた。
『――興味深い。感情という巨大なバグが、天の論理を一時的に凌駕したか。……ならば、次からはその感情のゆらぎすらも引数に加えた、より残酷な数式を用意しよう』
姿なき軍師オモイカネの声は、地上の不浄を根絶やしにするための、次なる殺戮の計算を、暗い空の向こうで既に開始していた。




