第34話
浮遊する瓦礫の山から、一人の痛々しい影が泥塗れになって這い出した。
スイゼイだった。彼の漆黒の外套は神兵の返り血でどす黒く汚れ、片方の足首は不気味な方向に曲がっている。だが、その右手にがっちりと握られた銀の鈴だけは、一点の曇りもなく冷酷に光り輝いていた。
「スイゼイ! 生きてたかッ!」
ニニギがニギハヤヒの放った空間停止の円盤を不動の楯で弾き飛ばしながら、野太い声を上げる。
「……五月蝿いぞ、ニニギ。私の集中を乱すな」
スイゼイは、折れた足首を引きずりながら、巨神タヂカラオの足元へと音もなく歩み寄る。
重力反転の混乱から強引に復帰し、再び地上の砦を圧殺すべく拳を振り上げようとしていた三十メートルの巨神が、その足元の小さな羽虫のような存在に気づき、不気味な三つの眼球を細めた。
「……しぶといな、泥の巫師よ。貴様のその安っぽい鈴など、我が指の一突きで塵にしてくれよう」
「……できるものなら、今すぐやってみろ。お前のその誇り高き肉体は今、私の呪いの領土だ」
スイゼイが、血に染まった震える手で銀の鈴を天に向けて高く掲げた。
――禁術・「言霊の檻」。
リン、リン、リンッ!!
澄んだ鈴の音が戦場に響くたび、タヂカラオの圧倒的な黄金の筋肉の表面に、真っ黒な呪詛の文字がじわじわと浮かび上がっていった。それは、かつてマカツの荒野で物言わぬ灰にされた人間たちの凄絶な怨念。そして、スイゼイが祭司として一生をかけて蒐集してきた、天上の絶対の理を逆転させるための禁忌の詠唱だった。
「な、……!? 身体が……動かぬ! 我が神話的筋肉が、石のように……ッ!」
巨神タヂカラオが、初めて明確な驚愕に目を見開く。振り上げられた圧倒的な拳が、空間の途中でピタリと完全静止した。それは物理的な緊縛などでは断じてない。スイゼイの放った不浄の呪文が、タヂカラオの脳から全身の筋肉へと送られる神力の伝達信号を強引に遮断し、完全に上書きしているのだ。
その瞬間、スイゼイの目、鼻、耳の穴から、一気にどす黒い鮮血が激しく吹き出した。
神のコマンドを力任せに書き換えるという行為は、人間の矮小な精神をシュレッダーに直接かけるに等しい、凄絶な魂の代償を伴うものだった。
「……イワレビコ……!! 今だ、撃て……ッ!!」
スイゼイが、口から大量の血を吐き散らしながら絶叫した。
「……よくやった、スイゼイ」
イワレビコが岩盤を強く蹴り、跳躍した。
重力反転の余波によって今もなお空中に浮遊する巨大な瓦礫を足場代わりに、一気にタヂカラオの無防備な胸元――その神の絶対的な核心へと肉薄する。
黒鉄の義手の左腕が、これまでにないほど狂おしく激しく脈動し、周囲の天上の光を一瞬で吸い込んでゆく。
「……アマテラスに、伝えておけ」
イワレビコは天の沼矛の折れた柄を右脇に固定し、自らの背骨の軸、そして全身の海の血の全質量をその穂先の一点へと極限まで集中させる。
「……地上の不浄は、お前たちのその高貴な喉元まで、既に届いているとな」
――深淵一閃・「神貫」。
完全に静止した巨神の分厚い胸板を、不浄な黄金色の光を纏った黒き長槍が、空間を裂く激しい雷鳴を伴って真っ向から貫通した。




