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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第2章 東征準備編)

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第22話

泥と血にまみれた敗走は、十日に及んでいた。

 逃げ延びる途中で立ち寄ったマカツの宮殿は、地下の蔵に至るまでが天の白光に焼かれ、無残な灰の山と化していた。イワレビコたちはその灰の底から、かろうじて天の沼矛の残骸――かつて海神の血族が鍛えたという、黒く錆びついた穂先の部品だけを掘り出し、背嚢へと静かに滑り込ませた。


 武神タケミカヅチの雷が焼き払ったのは、マカツの軍勢だけではない。イワレビコの王としての誇り、そして神を殺せるという傲慢な確信さえも、あの無音の白光の中に跡形もなく蒸発していた。


 一行は南へ、さらに南の未開の地へと逃れた。追ってくる神軍の銀の猟犬を、ニニギが半死半生の体で砕けた鉄の楯を掲げて防ぎ、精神を焼かれて意識を失いかけるスイゼイを、イワレビコが残された右腕一本で支え、獣道を這うように進んだ。


 辿り着いたのは、峻険な崖に囲まれ、凶暴な潮騒が絶えず牙を剥く南の辺境――「隼人」の里だった。


「……止まれ、死人ども。ここから先は天の光も届かぬが、人の情けも届かぬ場所だ」


 濃い潮霧の向こうから、鋭い声が響く。

 現れたのは、赤い樹皮を編んだような奇妙な鎧を纏い、犬の皮を頭から被った粗野な戦士たちだった。隼人の民。天の法とは異なる荒ぶる土着の神を信奉し、海と共に生きる、歴史から忘れられた民だ。


「……マカツの……王だ。……通してもらう」


 イワレビコが、折れた槍を杖代わりに一歩前に出た。

 左肩の無惨な欠損。そこから立ち上る黒い霧は、今や消え入りそうなほどに弱々しい。だが、彼の右目に宿る、飢えた狼のような暗い光を見て、隼人の戦士たちは一瞬だけ本能的にたじろいだ。


「マカツの王だと? あの、天に向かって神を殺すと嘯いた大馬鹿者か」


 戦士たちの緊迫した間合いを割り、一人の大男が傲然と進み出た。

 隼人の長、ツチグモ。その褐色に焼けた全身には、神から与えられた服従の証――天の紋様の刺青が痛々しく刻まれていた。


「無惨な姿だな。腕を奪われ、民を失い、それでもまだ生に執着しようというのか。……イワレビコよ、教えてやろう。この里の者は皆、知っている。人間は神に逆らえない。それが、この世界のたった一つの、壊しようのない真実だ」 

「……」

「逆らえば、里が焼かれる。抗えば、種が絶える。だから我らは犬のように地に這い、神の靴を舐めて今日まで生き延びてきた。……お前の通った道には、不浄な死体しか残っていない。この里に、その滅びの呪いを持ち込むな」


 ツチグモの冷徹な言葉は、いかなる神の槍よりも深く、イワレビコの胸を突き刺した。

 背後で、ニニギが崩れるように膝をついた。肉体の限界だった。スイゼイは、神の存在圧に焼かれた脳が悲鳴を上げ続け、虚空を虚しく掴んでは激しく震えている。


 自分についてきた結果が、この地獄だ。

 正しいのは、目の前のツチグモの方かもしれない。神に跪き、尊厳を売ってでも、民の命を繋ぐのが王の本当の仕事ではないのか。


「……それでも」


 イワレビコは、右手の槍を強く握りしめた。右の手のひらの大傷が裂けて痛み、鮮血が折れた柄を伝って、土の上へと滴り落ちる。


「……それでも、俺は……まだ、諦め方を知らない」

「なら、その折れた槍で証明してみせろ。片腕の王よ」


 ツチグモが、巨大な黒い石斧を構えた。

 落ち延びた敗者への歓迎の宴などそこにはない。あるのは、絶望を骨の髄まで知る者同士の、残酷な生存の儀式だけだった。


「俺たちが神に逆らえないという絶対の道理を……その身に、二度と忘れぬほど刻み込んでやる」


 南の果て。荒れ狂う太平洋の波の音を背景に、全てを失った王の、本当の「人間の試練」が始まろうとしていた。

 その頃、マカツの無機質な荒野には、天孫軍の一隊が静かに降り立っていた。

 彼らは言葉もなく戦場跡を歩き、泥の中に深く突き刺さった、あのフツノミタマを無造作に回収した。白い手袋をはめた指先が柄を厳重に包み、黒剣を秘匿する布が天の光を遮断する。ただ、それだけの作業だった。


 用が済むと、天孫軍はそのまま天へと帰っていった。フツノミタマが、地上の戦場から完全に消え去った。神が、人間の置き土産をただ片付けることに、いかなる感慨も宿してはいなかった。

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