第21話
考古学者・前野は『倭王年代記』マカツ滅亡編の現代語訳を終えると、研究室のソファに深く座り込んだ。パイプタバコに火をつけ、灰色の紫煙を燻らせながら、彼は一息つく間もなく、次の石板――第二の断章の解読に取り掛かった。
泥の中に突き刺さったフツノミタマは、もはやかつての禍々しい拍動を完全に止めていた。
イワレビコは、残された右の手のひらでその柄を握り、引き抜こうと試みた。だが、肩の付け根から無残に失われた左腕の欠落が、彼の肉体の平衡感覚を狂わせる。
「……あ、……が」
抜けない。かつては体の一部のように軽かった黒剣が、今はただの、呪わしく重い鉄の塊にしか感じられなかった。不浄の左腕という「器」を失ったことで、イワレビコの中から神殺しの異能が剥がれ落ち、彼はただの無力な片腕の男へと引き戻されていたのだ。
「無理だ、イワレビコ。その剣はお前の闇を食って動いていた。……今の空っぽのお前じゃ、持ち上げることすら叶わん」
ニニギの背で、スイゼイが血を吐きながら冷酷に告げる。
背後の闇からは、タケミカヅチが使役する残党――銀色の猟犬たちが、獲物の息の根を止めるために音もなく近づいてきていた。
「くそ……! 殿、これを使ってくれ!」
ニニギが、砕けた鉄楯の破片と共に、戦場に転がっていた一本の棒を投げ渡した。それは、先ほどタケミカヅチの一振りで消滅したマカツ兵の一人が最期まで握っていた、折れかけた鉄の長槍だった。
イワレビコは、反射的にその槍を右手だけで掴み取った。
重い。だが、あの呪わしい剣とは決定的に違っていた。槍の柄を通じて、大地の確かな感触が掌に伝わってくる。剣は自分の内に闇を溜め込む武器だが、槍は自分の外にある敵を、遠くから峻絶に射止めるための道具だ。
「……タケミカヅチの槍は、一振りで十人を殺した」
イワレビコは掠れた声で呟いた。黄金色だった左目は、今や濁った灰色に沈んでいる。だが、その瞳に映る景色は、怪物だった頃よりもずっと鮮明だった。
「……あいつに届くには、剣じゃ短すぎる。一歩でも、一寸でも、遠くから奴の心臓を穿たねば、俺たちに勝機はない」
イワレビコは、折れた槍の穂先を、迫りくる銀の猟犬へと真っ向から向けた。
左腕がない。重心が全く安定しない。だが、彼は右足を深く引き、全身のばねを槍の「点」へと集中させた。
――突き。
それは、技と呼ぶにはあまりに不格好で、しかし凄まじい生への執着を孕んだ一閃だった。
猟犬の眉間に、泥臭い鉄の穂先が吸い込まれる。神の眷属の硬質な皮膚を、イワレビコの海の血が混じった殺意が、力任せに突き破った。
仕留めた。
剣で喰らうのではなく、槍で明確に拒絶したのだ。
「……これだ」
イワレビコは、自らの右腕に伝わる強烈な反動を噛み締めた。左腕という怪物を失い、彼は改めて知ったのだ。自分はただの不完全な人間であり、人間が神という圧倒的な天災を止めるには、命を懸けてその間合いを支配するしかないのだと。
「……その槍。マカツの蔵に眠っていた、あの錆びた穂先を付け替えれば、あるいは……」
スイゼイが、朦朧とする意識の中で呟いた。かつて、天の光を拒んだ海神の血族が天を突くために鍛え、あまりの重さに地上の誰も扱えなかったという伝説の槍――天の沼矛の残骸。
「……戻るぞ、マカツへ」
イワレビコは、折れた槍を杖代わりに強引に立ち上がった。背後の闇に、あのフツノミタマを静かに置き去りにして。
それは、復讐の手段を変えるという絶対の宣言だった。己を蝕む黒剣との決別。そして、神の象徴である槍をもって神を討つという、皮肉に満ちた宣戦布告。
「ニニギ、スイゼイ。……俺を支えろ。次は、逃げん」
夕闇の荒野に、三つの影が這うように進み出す。
神に逆らえないと宣告されたその地で、片腕の王は、空を穿つための一条の「光」をその手に握りしめていた。




