第20話
音が、完全に消えていた。
マカツの荒野に広がっていたのは、静寂という名の圧倒的な暴力だった。
タケミカヅチが放った冷徹な一撃は、大気を、音を、そしてそこに生きていた者たちの命を等しく消滅させたのだ。後に残されたのは、過酷な熱量によって硝子状に溶けて固まった巨大な穴と、辺りに立ち込める不快なオゾンの臭気だけだった。
「……あ、……ぁ」
泥の中に顔を埋めたまま、イワレビコは肺に残されたわずかな空気を絞り出すように吐き出した。
激痛すら、もう遠い。全身の神経が焼き切られ、脳が痛みという信号を受け取ることそのものを拒絶していた。彼はゆっくりと、動かぬ指先を土に食い込ませ、強引に顔を上げた。
視界の左半分が、真っ暗だった。
フツノミタマと一体化し、神の肉を屠ってきた黒い左腕は、肩の付け根から無造作に消し飛ばされていた。焼けた肉の断面から、黄金色の神血の火花が、時折、弱々しく散る。
「……逃げたか。……それとも、殺す価値もないと……捨てられたか」
視線の先。武神タケミカヅチの姿は、もうどこにもない。
あれほどの絶望を撒き散らした男は、一瞥もくれずに天へと帰ったのだ。道端の石を蹴り飛ばした男が、その石がどこへ転がったかを確認せぬのと同じように。
「イワレビコ……ッ! おい、生きてるか!!」
瓦礫の山が崩れ、血まみれのニニギが這い出してきた。
彼の左腕もまた、タケミカヅチの一閃の余波によって無惨に砕け、力なくぶら下がっている。鉄の大楯は熱で完全に溶け、右手の皮膚に張り付いたまま離れない。
「ニニ……ギ……」
「喋るな。……酷いな、こりゃあ。……全部、消えちまった」
ニニギが、呆然と周囲を見渡す。
誇り高きマカツの精鋭たち。イワレビコの背中を信じて楯を並べた二十人の男たち。一人として、そこにはいない。死体すら残されてはいなかった。ただ、彼らが最期まで握っていた鉄の破片が、あちこちで赤く熱を持って転がっているだけだった。
「……術も、全く効かなかった」
スイゼイが、どす黒い泥水を吐き出しながら立ち上がった。彼の瞳からは光が失われ、両耳からは絶えず黒い血が流れ落ちている。神の絶対的な法に直接触れた代償。祭司としての精神は、今、半分壊死していた。
「あいつは……武神などじゃない。タケミカヅチは、この世界の重力や時間と同じ……避けられぬ、抗えぬ、ただの真実だ。人間が神に勝つなど、最初から……」
「……黙れ、スイゼイ」
イワレビコが、残された右腕一本で大地を押し、這い上がった。
「……まだ、……心臓が動いている」
彼は、足元に転がっているフツノミタマを見つめた。
腕と共に吹き飛ばされたはずの黒剣は、主を追うように、泥の中に深く刺さっていた。刃は不様に欠け、あれほど猛り狂っていた闇の拍動も、今は消え入りそうなほどに細い。
「腕を……食わせすぎたか。……すまない、フツノミタマ」
イワレビコは、右の手のひらで、剥き出しの黒い刃を強く握りしめた。
鋭く斬れる。血が流れる。その泥臭い痛みだけが、彼がまだ「人間」であることを明確に証明していた。
「……ニニギ。……スイゼイ。……立つのだ」
イワレビコの声は、ひどく掠れていた。
だが、その右目に宿る光は、神に敗北する前よりも、ずっと暗く、深く、底知れぬ怨念を孕んでいた。
「……俺たちが、人間だというのなら。理不尽に抗って、死ぬまで足掻くのが、人間の法だろうが」
空の亀裂は、もう完全に閉じていた。皮肉なほどに美しい青空が、無慈悲に彼らを見下ろしている。
イワレビコは、失った左肩を右手で押さえ、天に向かって静かに唾を吐いた。
――ここからだ。
王でもなく、怪物でもなく、ただの死に損ないの人間たちが、天の絶対を地獄へ引きずり下ろすための、真の「戦争」が始まる。
(第一章:マカツ滅亡編 完)




