第28話
研究室。気がつけば、窓の向こうの空が白々と明るくなっていた。
神崎がペンを置き、眼鏡をゆっくりと上げる。
「おい、前野。この記述(磐井と熊襲が神を裏切るシーン)、正史(日本書紀など)の記述と完全に矛盾するぞ。正史において『磐井の乱』は、大和王権に対して磐井が起こした単なる地方の反乱であり、物部麁鹿火によって鎮圧されたとされている。だが、この『倭王年代記』の記述が示す真実はどうだ?」
「ああ、神崎。神話(天)は隠したかったのさ。かつて地上には、天の絶対的な支配に対して、磐井も、熊襲も隼人も、すべてが手を取り合って結成した最初で最後の人間の大連合軍(神殺しの万の軍勢)が存在していたという事実をな。王権はのちに、彼らの繋がりを分断し、それぞれが勝手に起こした『ただの反乱』として歴史を書き換えたんだ」
かつてマカツと呼ばれた豊穣の国は、今や巨大な白金の墓標へと完全に変貌していた。
街並みは跡形もなく消え去り、中心部にはタケミカヅチが呼び寄せた天上の神殿が、逆さ吊りの山のように虚空に禍々しく浮いている。そこから放たれる圧倒的な光の粒子が地上の灰を白く塗り潰し、生物の存在を一切許さぬ、絶対的な静止の世界を作り出していた。神はマカツの地を完全に占領し、植民地としたのだ。
その神殿の玉座――崩れ落ちた城門の残骸の上に、神軍将軍タケミカヅチは傲然と座していた。
大槍を傍らに無造作に立てかけ、灰色の瞳で遠く南の地平を冷徹に見つめている。彼が吐き出す息は、微かな静電気となって大気を震わせ、周囲の空間をチリチリと無慈悲に焼いていた。
「……来たか。しぶとい羽虫どもだ」
タケミカヅチの傍ら、抜き身の直刀を膝に置いていた武神フツヌシが、静かに立ち上がった。
彼の白い着流しは、風もないのに鋭利にたなびいている。その瞳には、以前人間を圧倒した時の退屈はなく、研ぎ澄まされた鏡のような殺意が宿っていた。
「フツヌシよ。風の匂いが変わったとは思わぬか」
「……ええ。潮騒の匂いです。それも、ひどく澱んだ、底の見えぬ深海の匂いだ」
フツヌシが鋭い視線を向けた先。
地平線の向こうから、真っ黒な津波のような線が押し寄せてくるのが見えた。
――一万の軍勢。
隼人の地を震わせる叫び、熊襲の野獣の咆哮、磐井の鉄の重厚な響き。そして、マカツの敗残兵たちが胸の奥に抱く、臓物を焼き焦がすような宿怨。それらが混ざり合い、天上の光を根こそぎ喰らい尽くすような巨大な影となって、マカツの廃墟へと迫っていた。
その軍勢の先頭。泥にまみれた軍馬に跨り、一本の長槍を高く掲げる男がいた。
イワレビコは、神殿の頂に座すタケミカヅチを真っ向から見据えた。彼の左肩に繋がれた黒鉄の義手は、神の放つ静電気に過敏に反応し、ギチ、ギチと不吉な金属音を立てて蠢いている。
一万の軍勢が、神殿から数百メートルの距離で、ピタリと地響きを止めた。
「ニニギ。スイゼイ」
「ああ、分かってる。ここが、俺たちの死に場所じゃねえ。神様の厳かな命日だ」
ニニギが、黒石を埋め込んだ不動の大楯を地面に深く突き立てる。
「……天の法は、既に崩壊している。視えるぞ。天の光の下に隠された、神どもの剥き出しの肉がな」
スイゼイが、血走った目でタケミカヅチの神殿を鋭く指差した。
イワレビコは馬を降り、ゆっくりと石畳を歩み出た。右手に握られた天の沼矛の穂先が、硝子化した地表を削り、火花を散らす。
「……タケミカヅチッ!!」
イワレビコの咆哮が、神域の冷徹な静寂を切り裂いた。
「お前は言ったな。人間は、ただのゴミだと。神は、抗えぬ法則だと」
イワレビコは、黒鉄の義手の左手で長槍を力強く握り直した。義手の隙間から、黄金色の海の血が不浄な蒸気となって噴き出し、彼の周囲の重力を狂わせていく。
「なら、その法則を……俺の槍で、根こそぎ穿ち抜いてやる。一万の絶望を、その喉元に叩き込んでやるぞッ!!」
玉座のタケミカヅチが、ゆっくりと腰を上げた。
彼が傍らの大槍を手にした瞬間、マカツの全域に、凄まじい本物の雷鳴が轟き渡った。
「……面白い。死に損ないの王よ」
タケミカヅチの全身の周囲に、純白の雷が激しく渦巻く。
「その泥にまみれた不条理な執念。天の理を以て、今度こそ塵一つ残さず、世界から消し去ってくれよう」
武神フツヌシが音もなく前進し、その凶暴な直刀を抜刀した。それに応じ、ニニギが野太い咆哮と共に楯を掲げ、突撃の合図を送る。
天上の白金の光と、地上の真っ黒な潮騒が、マカツの灰の上でいま、真っ向から激突した。




