第18話
その音は、鼓膜ではなく脳髄に直接響いた。
――うおおおおおおおおんっ!!
だが、そこには野の獣の飢えと、金属が激しく擦れ合うような無機質な響きが不気味に混ざり合っていた。
北の荒野。破壊された拠点の穴の向こうから、一筋の純白の雷が地を這うように凄絶な速度で迫ってくる。
「……来る。隠れろ、ニニギ!」
イワレビコが叫んだ。彼のフツノミタマは、恐怖に錯乱したかのように、これまでにないほど激しくかたかたと脈動を繰り返している。不浄の浸食が進んだ左半身が、敵の放つ圧倒的な静電気に過敏に反応し、黒い鱗の隙間から黄金色の火花をぱちぱちと散らしていた。
苛烈な雷光の中から、姿を現したのは巨大な三つ首の犬だった。
全身を白金の毛皮に覆われ、六本の脚が地を蹴るたびに、周囲の荒野が一瞬にして白磁のように結晶化していく。三つの首にはそれぞれ、以前倒した神兵たちとは比較にならぬほど巨大で、精緻な「笑顔の仮面」が固定されていた。神の獣性。意志なき純粋な暴力の塊がそこにあった。
「……あ、ああ……」
ニニギの背で、スイゼイが恐怖にがたがたと震えながら崩れ落ちそうになった。
「……タケミカヅチの『獣の相』だ……。あんなものに、人間の智が勝てるわけがない……」
三つ首の神犬は、イワレビコたちの眼前でぴたりと立ち止まった。そして三つの首が同時に、天に向かって凄絶な咆哮を上げる。
――おおおおおおおおっ!!
その咆哮とともに、犬の巨体が強烈な白金の雷光に包まれた。毛皮が急速に収縮し、六本の脚が溶け合い、三つの首が中心へと集束していく。それは肉体の変身などではなく、純粋なエネルギーが「物理的な法」へと強制的に凝縮されていく過程だった。
雷光が収まった時。そこには、一人の大男が毅然と立っていた。
身の丈は二丈を超える。これまでの神兵のような絢爛たる鎧は纏っていない。ただ、黒い軍服を思わせる実戦的な装束に、雷の紋様が刻まれた白金の肩当てだけを据えている。
顔は、地上の戦士のように荒々しく、濃い顎髭を蓄えていた。だが、その瞳だけが決定的に異なっていた。虹彩も瞳孔もない。ただ、暴風雨の中の暗い空のような、不気味な灰色が不吉に渦巻いている。
神軍将軍、タケミカヅチ。
彼がそこにただ立つだけで、周囲の重力は完全に狂い、地上の灰が空へ向かって逆流し始めた。
「……不快な羽音だ」
タケミカヅチの声は、地底から響く低い雷鳴のようだった。彼はイワレビコを一瞥もしない。ただ、自分の右手に凝縮され始めた雷光を冷徹に見つめていた。
タケミカヅチが右手を横に一閃する。その瞬間、周囲の雷光が一瞬にして収束し、一振りの武骨な大槍へと姿を変えた。
槍身はタケミカヅチの身の丈を超え、刃は鈍く灰白色に光っている。無駄な装飾など一切ない。ただ、神の理を拒絶する地上の不純物を、根こそぎ貫き通すためだけに鍛え上げられた、武の絶対権現。
「……貴様が、カグヤマを討ったごみか」
タケミカヅチが、初めてイワレビコに冷たい視線を向けた。
その瞬間、イワレビコは全身の穴という穴から鮮血が噴き出すような、圧倒的な殺気の質量に押しつぶされた。
「……が、あ……っ」
フツノミタマを構えることさえできない。イワレビコの中の「海の血」が、タケミカヅチの放つ天の雷の前に、本能的な原初の恐怖で完全に凍りついていたのだ。
「……弱い。……話にならぬな」
タケミカヅチは退屈そうに呟き、大槍を水平に構えた。
穂先から純白の雷が地を這い、荒野を割りながら、イワレビコの心臓へと正確に狙いを定める。神の圧倒的な余裕。戦いさえ始まらない。ただの冷徹な「執行」が、今、始まろうとしていた。




