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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第1章 マカツ滅亡編)

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第17話

勝利の味は、砂を噛むようだった。

 東の回廊を完全に灰にした一行は、さらに北の過酷な荒野へと進んでいた。


 イワレビコの歩みは、もう誰にも止められなかった。彼の左半身を無慈悲に覆う黒い鱗は、今や首の筋を網の目のように這い上がり、左耳の形状さえも、尖った獣のそれへと変えつつあった。

 彼が吐き出す息は白く、しかしそこには、海水が不吉に腐ったかのような、重く冷たい湿り気が混じっている。


「……イワレビコ、少しは休め。……おい、聞いてんのか」


 後ろを歩くニニギが、血のついた手で彼の肩を不意に掴んだ。

 その瞬間、イワレビコは肉体の拒絶のままにフツノミタマを抜き放ち、ニニギの喉元へと鋭く突きつけていた。黒い刃から溢れ出る濃密な殺意が、ニニギの肌をちりちりと無慈悲に焼く。


「……触るな。……次は、斬る」


 イワレビコの右目――辛うじて人間として残された漆黒の瞳――に、一瞬だけ激しい後悔が走る。だが、黄金色に完全に染まった左目は、眼前の戦友をただの「動く肉」としてしか捉えてはいなかった。


「……っ。ああ、そうかよ」


 ニニギはゆっくりと手を離し、苦々しく唾を吐き捨てた。

 二人の間に確かに流れていた、信頼という泥臭い温もりは、神を殺すごとに冷酷に削り取られ、今や殺伐とした刃の空気だけがその空間を支配していた。


「……無駄な争いはよせ。獲物が、まだ息をしているぞ」


 ニニギの背に背負われたスイゼイが、傷ついた肩を抑えながら前方の穴の底を指差した。

 破壊された拠点の中心。瓦礫に下半身を無様に押しつぶされた一柱の神兵が、黄金色の血を流しながら横たわっていた。幹部クラスに近い、明らかに高位の神だった。


 イワレビコは音もなく歩み寄り、その神の胸元へと黒い獣の爪を容赦なく立てた。


「拠点は二つ壊した。……次はどこだ。天の玉座は、どこにある」


 だが、その神は苦痛に顔を歪めることさえしなかった。それどころか、彼はイワレビコの異形の姿を見つめ、くつくつと喉を鳴らしてあざ笑い始めたのだ。


「……はは、は……。哀れな。……泥を喰らい、己を捨て、そこまでして届いたつもりか」

「何が……おかしい」

「拠点を二つ? ……虫けらよ、お前が壊したのは、我らが地上を清掃するために置いた『塵取り』に過ぎぬ。天の広大さを、貴様らは一欠片も理解しておらぬのだな」


 神の乳白色の瞳に、深い憐憫の色が浮かび上がる。


「お前が海の血に目覚めたところで、それは所詮、地の底の澱みに過ぎん。……真なる天の意志、武の絶対権現が動けば、その黒い夢も一瞬で蒸発する」

「……誰のことだ」

「将軍、タケミカヅチ。……彼が腰を上げた時、お前たちは知るだろう。神とは倒すべき敵などではなく、ただそこに在るだけで死を強いる『絶対の法則』であることを……」


 神の肉体が、内側から凄まじい黄金の光を放ち始めた。自爆の法。だが、イワレビコは無造作に神の首を爪で撥ね、その膨れ上がる光の核を、黒い左腕だけで強引に握りつぶした。

 神は完全に死んだ。だが、その最期の嘲笑が、いつまでも耳の奥から離れない。


「……タケミカヅチ。……その名、知っているのか、スイゼイ」


 イワレビコが、重く、地鳴りのような声で口を開いた。

 スイゼイの顔から、さらに血の気が引いていく。祭司である彼は、その名の響きだけで、これから地上を圧殺しにくる終焉の重圧を、誰よりも敏感に察知していたのだ。


「……天の執行者だ。カグヤマやワカヒコが狩人なら、あいつは断頭台そのものだ。戦うという概念すら成立しない……。現れた瞬間、すべてが消滅すると言われている」


 その時だった。

 雲一つないはずの夜空が、一瞬だけ、青白く不吉に光った。

 雷鳴は、聞こえない。

 だが、大気中のすべての水分が瞬時に沸騰したかのような、異様な静電気が一行の肌をちくちくと刺した。イワレビコのフツノミタマが、本能的な恐怖に震えるように、これまでにないほど激しくかたかたと鳴動を始める。


「……来たな」


 イワレビコは、黒く染まった指先を静かに天へと向けた。

 遥か上空。そこには亀裂も、戦船の影もなかった。ただ、一筋の純白の雷が、不気味なほど静かに、しかし確実にマカツの地へと狙いを定めていた。

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