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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第1章 マカツ滅亡編)

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第16話

辺りは、完全なる漆黒の闇に包まれていた。

 霊脈エネルギーの凄絶な逆流。拠点は内側から完全に崩壊し、それまで空を傲然と支えていた光の柱が、悲鳴を上げて折れ曲がった。


 やがて、おぞましい静寂だけが戻る。

 かつて神軍の回廊だった跡地は、地上の血を吸い尽くされたような、ただの巨大な穴と化していた。

 生き残ったのはイワレビコ、ニニギ、そして瀕死のスイゼイのみ。死力を尽くして付き従ってきた数十人のマカツ兵たちは、一人残らず、天の光の灰と化して消え去っていた。


 イワレビコは、その穴の中心でただ一人、立ち尽くしていた。

 彼の黒い左腕は、もはや人間の形状を留めてはいない。指先は鋼よりも鋭い鉤爪へと変貌し、そこからは、いま屠った神の黄金色の血がどろどろと滴り落ちていた。


 息は、している。

 それだけは確かだった。だが、その呼吸の音が、以前とは決定的に異なっていた。人間の肺が空気を吸い込む音ではない。陽光の届かぬ深海の底で、巨大な異形が蠢くような、低く湿った鳴動だった。

 イワレビコは、ゆっくりと自分の右手を見つめた。


 右手だけが、まだ人間としての肉の色を辛うじて保っている。

 最初の荒野で神兵を初めて倒した夜、この右手だけが激しく震えていた。あの時は理由がわからなかった、と彼は微かに覚えている。だが、今はわかる。あれは、人間の手が、己がまだ人間であることを懸命に確認しようとしていた「拒絶の震え」だったのだ。


 今、その手は微塵も震えてはいない。

 震えるための人間らしい何かが、もうそこには残されていないのだ。

 右手の甲に、一本だけ、不吉な黒い筋が走っていた。昨日までは影さえなかった、不浄の紋様。

 イワレビコはそれを見つめた。見つめて、しかし何も感じなかった。何も感じぬことへの恐怖さえ、もう彼の心には残っていなかった。


 それこそが、彼にとって最も深い、取り返しのつかない「喪失」だった。


「……勝ったぞ、イワレビコ」


 ニニギが、頬の涙を拭うことさえ忘れたまま、神血の海を歩み寄ってきた。


「お前の……おかげだ。こいつで、神の拠点は二つ目だ……」


 イワレビコが、ゆっくりと首を巡らせた。

 その黄金色の瞳に、ニニギの泥臭い姿は確かに映っている。だが、そこには以前のような友としての親愛も、勝利の安堵もなかった。ニニギの顔を見た。見たはずなのに、内面にはいかなる感情の波紋も浮かび上がらない。


 かつて、この戦友が黒く変色した左手を両手で固く掴んだことがあった。熱かった。その泥臭い熱さが、腕の中の異物の脈動をほんの少しだけ遠ざけてくれた。あの感覚を、イワレビコはまだ「知識としての記憶」で持っている。だが今、目の前のニニギを見ても、その記憶は冷たく凍りついたままで、二度と動かなかった。ただ、そこにあるだけだった。


「……次は、どこだ」


 その声を聞いた瞬間、ニニギは背筋に凍りつくような寒気を感じた。

 イワレビコは、足元に転がっているかつての部下たちの遺品を無造作に踏みしだき、穴の出口へと歩き出した。


 何かを踏んだ、と感覚だけでわかった。冷たい金属の感触が足の裏から伝わってくる。それは、誰かの折れた鉄剣だった。誰の剣だったかは、もう思い出せなかった。思い出そうとして、すぐにやめた。名前を引き出そうとする脳の回路が、侵食によってうまく機能していないのだ。


 名前が、消えていく。

 タカクラジ。その名前は、まだある。ナガハ。それもある。だが、つい先ほどまで隣で泥水を啜り、共に息をしていた兵たちの顔と名前が、もう深い霧の向こうへ急速に沈み込んでいた。


 ――これが、代償。

 神を殺すたびに、天の理に近づくたびに、人間だった頃のあらゆる記憶が薄れていく。怒りではなく、悲しみでもなく、ただ静かに、人の輪郭が世界から消去されていくのだ。


 イワレビコは歩き続けた。一度も振り返らなかった。

 仲間を捨て、命を数え、ただ天上の神を殺すためだけに最適化された、黒き怪物の背中がそこにあった。

 その光景を、天上の鏡から冷めた目で見つめる男が一人。


「……少しはましな玩具になったようだな」


 神軍将軍、タケミカヅチ。

 彼がゆっくりと玉座から立ち上がっただけで、それまで高天原を覆っていた白金の雲が、すべてを圧殺する真っ黒な雷雲へと一変した。

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