第15話
北の断崖を包んでいた大気が、一変した。
それは不吉な湿り気を帯び、剥き出しの鉄の匂いと、どこか塩辛い潮騒の香りを孕んでいた。イワレビコの足元から広がる黒い影は、もはや光の反射が生む物理現象ではない。それは天上の光を拒絶し、すべてを等しく深淵へと沈める、底なしの「海」そのものだった。
「……目障りな影だ。天の法に、歪みなど不要」
空中を不敵に舞うアメノワカヒコが、二の矢を番えた。
今度は一本ではない。神の魔力が込められた八本の銀矢が扇状に広がり、地上の逃げ場を完全に塞ぐようにイワレビコを強襲する。
「イワレビコ、避けろ!」
ニニギが叫んだ。だが、イワレビコは一歩も動かない。
「……沈め」
イワレビコが低く呟くと、彼の周囲の空間が目に見えて歪んだ。
放たれた八本の銀矢がイワレビコの手前に差し掛かった瞬間、まるで見えない巨大な錨を乗せられたかのように、その軌道が急激に下へと折れ曲がった。矢は地面に突き刺さることさえ許されず、黒い影の中に吸い込まれ、凄まじい水圧に潰されるように一瞬で圧壊した。
「何だと……? 我が矢の慣性を強引に殺したというのか!?」
「……お前の矢は、軽すぎる。ここはもう、お前たちの空じゃない。……俺の底だ」
イワレビコが岩盤を蹴った。
爆発的な跳躍。しかしそれは、これまでの人間の俊敏な動きとは決定的に異なっていた。彼の背後に立ち上る黒い霧が、まるで巨大な龍の尾鰭のように大気を掻き、圧倒的な推進力を生み出している。
「当たらぬと言ったはずだ!」
ワカヒコは光の鷲を操り、さらに高度を上げた。狩人の鉄則――間合いを保ち、地上の不純物が疲弊するのを待つ。だが、ワカヒコの計算は、目覚めた海の血の異常性を捉えきれていなかった。
イワレビコが空中でフツノミタマを横に一閃する。刃は空を切ったはずだった。だが、黒い剣先から放たれたのはただの斬撃ではなく、絶対的な重圧の塊だった。
「ぐ、あぁッ!?」
突如として、ワカヒコと光の鷲に数倍の重力がのしかかる。空を飛ぶための揚力が物理的に押し潰され、天上の狩人は無様に高度を落とした。
「おのれ……人間ごときが、この私を地に引きずり下ろそうというのか!」
ワカヒコは着地際、最後の足掻きとして、後方に控えるニニギとスイゼイに向けて矢を放った。イワレビコを直接討てぬなら、その足枷を狙う。神の冷酷な合理性だった。
「させねえよッ!!」
ニニギが真っ赤に焼けた鉄の大楯を掲げ、光の矢を正面から受け止める。だが、ワカヒコの放った天の追撃矢は、歪んだ楯の縁を掠めて、スイゼイの肩を深く貫いた。
「が、あぁッ……!」
スイゼイが血を吐き、膝をつく。その瞬間、戦場を支配していた潮騒の音が、狂ったような怒号へと変わった。
「……あ」
ニニギは、見てしまった。
スイゼイが傷ついた瞬間、イワレビコの全身から溢れ出した黒い霧が、もはや制御を失った異形の触手のように蠢き、周囲の巨石を粉砕していく様を。
「……消えろ。光ごと、すべて」
イワレビコが、ワカヒコの眼前に一瞬で肉薄した。その顔の左半分は完全に黒い鱗に覆われ、黄金の瞳が爛々と輝いている。
ワカヒコは恐怖に顔を歪め、短剣を抜こうとしたが、遅すぎた。イワレビコの黒い爪がワカヒコの光の翼を鷲掴みにし、そのまま根元から強引に引きちぎった。
「ぎゃあああああああッ!!」
神の絶叫が断崖に響き渡る。イワレビコは冷徹に、フツノミタマを逆手に持ち替えた。剣が、神の肉を求めて歓喜の鳴動を上げる。
「待て、イワレビコ! 止めろ! そいつをそんな風に殺したら……お前、本当に人間に戻れなくなるぞ!!」
スイゼイを抱えながら、ニニギが必死に叫んだ。イワレビコの動きが、一瞬だけ止まる。黄金の瞳が、わずかに揺れた。
だが、彼の耳に届いたのはニニギの声ではなく、血脈の奥底で渦巻く数千年の怨嗟だった。
――殺せ。喰らえ。天を、地の底へ。
「……俺は、もう……戻る場所なんて……ないんだ」
黒い刃が、アメノワカヒコの胸を真っ向から貫いた。ワカヒコの肉体が黒い霧に侵食され、黄金色の血を撒き散らしながら灰へと変わっていく――。
しかし次の瞬間、イワレビコが突き立てた刃の先で、アメノワカヒコは一本の「白い矢」へと姿を変え、ぱりんと軽い音を立てて砕け散った。
「……身代わりの術か」
イワレビコは、砕けた光の破片から剣を引き抜くと、力なく立ち上がった。
彼の左腕から始まった黒い浸食は、今や首筋を完全に超え、心臓の鼓動すらも、黒い毒へと確実に塗り替えていた。




