第14話
雲海を貫き、天の頂に座す白金の神殿。
そこでは、地上の喧騒とは無縁の冷たい均衡が支配していた。
円卓を囲むのは、天の法を司る七柱の幹部たち。
その中心で、一柱の神が報告を終え、深々と頭を下げた。
「……アメノカグヤマが討たれ、北の楔が沈黙しました。相手はマカツの残党。中心にいるのは、イワレビコと名乗る男です」
議場に、微かな、しかし鋭いざわめきが走る。神にとって同胞の死は悲しみではない。世界の絶対的な計算式に生じた、致命的なエラーに等しかった。
「なぜ、虫けらが神を殺せる。あれはただの清掃の範疇のはずだ。人間ごときの不純な鉄が、我らの理を穿つはずがない」
最奥に座す老神が、重苦しく問いかけた。
その問いに応じたのは、影の中から現れた記録の神だった。
「……血筋です。あの男の奥底には、忌むべき海の血が流れている」
「海の血だと?」
「左様。かつて天の光を拒み、深淵の闇に魂を売った反逆の民――海神の末裔。彼らは千年前、天への反旗を翻して地底へと追放されたはずでした。だが、その呪われた種火は、マカツという小国の中で細々と受け継がれていたようです」
海の血――それは神の光が届かぬ深海、絶対的な重圧と暗黒の中で鍛え上げられた、神の理を拒絶する不純物の呼称だった。
「道理で、フツノミタマを抜けるわけだ。あの黒剣は、同じく天に背いた者の魂にしか呼応せぬ」
「……放置できぬな。タケミカヅチを動かすまでもない。アメノワカヒコ。貴様に、その出来損ないの海を干上がらせる権利を与えよう」
議場の端で、一柱の若き神が静かに立ち上がった。
その手には、標的をどこまでも追尾し続ける天の狩弓が握られていた。
天上の会議が知る由もなく、地上ではイワレビコが、自らの肉体に起きているおぞましい変異と戦っていた。
北の断崖で破壊した霊脈の楔から溢れ出した膨大なエネルギーは、彼の黒い左腕にすべて吸い込まれていた。フツノミタマが、持ち主の制御を離れて勝手にどくどくと拍動を繰り返している。
「……っ、がぁッ!!」
イワレビコは膝をつき、岩盤を砕くほどの力で左拳を地面に叩きつけた。
浸食はもはや顎の下を通り越し、左目周辺の皮膚までもが硬質化した黒い鱗に覆われている。視界の左半分が、赤黒い熱の感覚へと無慈悲に書き換えられていく。
「イワレビコ! しっかりしろ、意識を持っていかれるな!」
ニニギが駆け寄ろうとするが、スイゼイがその胸を冷たく制した。
「近寄るな、ニニギ。今あいつに触れれば、お前もその深淵に引きずり込まれるぞ」
「深淵だと……? 何の話をしてやがる!」
「……血だ。あいつの中で眠っていた、神を拒む記憶が、楔の力を喰らって目覚めかけている。あれはもう、マカツの優しき王ではない。神を喰らうために最適化された、古代の怪物の姿だ」
スイゼイの言葉どおり、イワレビコの背中から、底冷えする黒い霧が翼のような形を成して噴き出した。
「……ああ……聞こえる」
イワレビコの口から、地鳴りのような低い声が漏れた。
「海の底の……暗い、波の音が。……あいつらを、一人残らず引きずり込めと……叫んでいる」
彼が顔を上げた。
黄金色に輝く左目は、今や瞳孔が獣のように縦に裂け、完全なる捕食者のそれへと変貌していた。
その時。遥か上空から、一筋の銀色の閃光が狂おしく降り注いだ。
「――見つけたぞ。天を汚す不純物め」
空中。光り輝く巨大な鷲に跨り、新たな刺客、アメノワカヒコが弓を引いていた。
放たれた一矢は空気を引き裂き、音速を超えてイワレビコの心臓へと一直線に突き進む。
だが、イワレビコは動かなかった。回避も、防御もせず、ただ、変質した黒い左腕を無造作に突き出した。
――ばぢぃぃぃぃぃんっ!!
神の放った必殺の一矢を、彼は素手で正面から掴み取り、そのまま強引に握りつぶした。
左腕の鱗から、黒い火花が不吉に散る。ニニギがその圧倒的な力に呆然と立ち尽くす。
イワレビコは、ゆっくりと空中に浮いているアメノワカヒコを見上げた。
その顔に、以前のような人間らしい怒りはもうなかった。ただ、飢えた獣が、極上の肉を見つけた時のような、純粋で残酷な「渇き」だけが瞳の奥に滾っていた。
「……次の天の贄か。ちょうどいい、喉の渇きが癒えぬところだ」
イワレビコの足元の地面が、一瞬にして真っ黒な泥のように溶け出した。それは影であり、同時に神を底なしの深海へと引きずり落とすための墓標でもあった。
海の血に目覚めた怪物が、天の狩人を迎え撃つ。




