第13話
北の断崖。
そこは地上の霊脈が天へと強欲に吸い上げられる、大地の剥き出しになった傷口のような場所だった。
垂直に切り立った崖の頂には、巨大な水晶の杭が突き立てられている。それこそが、神軍が打ち込んだ霊脈の楔だった。杭は不気味な一定の間隔で脈動し、周囲の空間から色彩を暴力的に奪い去っては、純粋な光のエネルギーへと変換して天界へ送り続けていた。
「あれが、神軍の動力源か……」
ニニギが、削られた大楯の影からその異様な光景を盗み見る。
楔の周囲には、黄金の鎧に身を固めた神兵が百騎以上。これまでの偵察隊とは纏う気配の格が違っていた。彼らは微動だにせず、ただ機械的な秩序をもって、その絶対的な聖域を管理していた。
「……これから俺が、奴らの高潔な論理を狂わせる。効果は数十秒。その間に、お前が楔を叩け」
スイゼイが、煤けた外套の中から錆びついた真鍮の鈴を取り出した。彼は迷うことなく自らの手首を小刀で深く切り裂き、溢れ出す鮮血を鈴の表面へ滴らせる。
「おい、何を……」
ニニギが絶句した。スイゼイの血は泥のようにどす黒く濁り、まるで悪意ある意志を持っているかのように、真鍮の表面を這い回っていた。
「神の法を聞くには、人間としての理性をどぶに捨てる必要がある。……黙って見ていろ」
スイゼイが、血濡れの鈴を激しく振るった。
――ちりん、ちりん。
その音は、耳を塞ぎたくなるほど不快で、この世のいかなる音階にも属さぬ、おぞましい不協和音を奏でた。
その瞬間、百騎の神兵たちの動きがぴたりと止まった。彼らの黄金の鎧が不規則に点滅し、一糸乱れぬ絶対の陣形が、まるでぜんまいの切れた絡繰りのように不様に崩れ始める。
「今だ。行け……死にたくなければな」
「……ニニギ、突入するぞ!」
「おうッ!!」
イワレビコとニニギ、そしてマカツから付き従ってきた数少ない兵たちが、一気に断崖を駆け上がる。
イワレビコはフツノミタマを狂おしく抜き放った。黒い刃が周囲の光エネルギーを強欲に吸い込み、漆黒の稲妻をぱちぱちと散らす。
「不浄……異物が……天の光を……」
一騎の神兵が、震える手で光の槍を構えようとする。だが、スイゼイの呪術によってその動作は極端に遅延し、乳白色の焦点も定まっていない。イワレビコは変質した黒い左腕で神兵の首を掴み、そのまま骨ごと握りつぶして前へと突き進む。
だが、天の拠点は決して甘くはなかった。
「楔に触れさせるな。全滅をもって、この地を清めよ」
スイゼイの精神干渉を強引に跳ね除け、十数騎の神兵が瞬時に正気を取り戻した。彼らが放つ光の矢の豪雨が、イワレビコの背後に続くマカツの兵たちを正確に捉える。
「ぎゃああああッ!」
「助けて……くれ……!」
昨日まで共に泥水を啜り、飢えを凌いできた仲間たちが、叫ぶ暇もなく光に焼かれ、一瞬にして白い灰となって蒸発していく。ニニギが焦げた大楯で必死に防ごうとするが、多方向からの苛烈な狙撃は防ぎきれない。
「止まるな! 楔を壊さなければ、全員がただの無駄死にだ!!」
イワレビコは、背後から鼓膜を刺す悲鳴をあえて脳から完全に排除した。一歩でも立ち止まれば、死んだ者たちの犠牲がその瞬間に霧散する。王の心は、フツノミタマの冷たさに呼応するように、急速に、冷酷に凍りついていった。
「そこだッ!!」
イワレビコは猛然と跳躍した。巨大な水晶の楔の前に、スイゼイが顔中の穴から血を吐きながら叫ぶ。
「イワレビコ! そこに神の心臓がある! 黒剣を、その中枢へ叩き込め!」
イワレビコは全身の肉と骨を軋ませ、フツノミタマを上段から一息に振り下ろした。
黒い刃が水晶の硬質な表面に触れた瞬間、世界の息の根が、一瞬だけ止まった。
――かぁぁぁぁぁぁんっ!!
金属的な絶叫とともに、巨大な水晶の楔が、内側からみるみる黒く腐食し始める。吸い上げられていた霊脈のエネルギーが猛烈に逆流し、周囲一帯に凄まじい衝撃波が吹き荒れた。
エネルギーの供給源を完全に断たれた衝撃によって、残存していた神兵たちが糸の切れた人形のように一斉にその場に膝をつく。
イワレビコは着地し、荒い息をつきながらゆっくりと振り返った。
そこにあったのは、勝利の光景などでは断じてなかった。
生き残ったのは、ニニギとスイゼイ。そして瀕死の兵が数人のみ。後の者はすべて、この一瞬の隙を作り出すための哀れな「肉の壁」となって消え去っていた。
「……勝ったぞ。楔は壊した」
スイゼイが、自嘲気味に低く笑った。その視線の先で、破壊された楔の結晶片が、冷たく無機質に地面を埋め尽くしていく。
イワレビコは、自分の黒い左腕を見つめた。楔を破壊した呪いの逆流のせいか、不浄の浸食は今や首の付け根を完全に越え、顎のラインまで冷酷に這い上がっていた。
仲間を捨て、人間性を極限まで削り、手に入れた最初の拠点破壊。それは祝杯を挙げるにはあまりに血生臭く、そして虚しい戦果だった。
「……次だ。スイゼイ。次の楔はどこだ」
イワレビコの声には、もはや一欠片の迷いも、人間らしい感傷も残されてはいなかった。
死んでいった者たちの名前さえ呼ばぬその冷徹な横顔に、ニニギは、天上の神々よりも恐ろしい「怪物」の完成を、静かに予感していた。




