第10話
アメノカグヤマの光剣が、イワレビコの右腹を深く抉った。
だが、イワレビコは止まらない。抉られた傷口から滴り落ちるのは、もはや鮮血ではなく、泥のように濁った黒い怨念の奔流だった。
「狂っている……! なぜ、これほどの苦痛に耐え、己を壊してまで、あり得ぬ反逆に身を投じるのか!」
カグヤマの絶叫。その高潔だった神の顔は、初めて「死」への恐怖によって醜く歪んでいた。
「……痛いか、神。……怖いか、神」
イワレビコは血の泡を吐きながら、変質した黒い左腕でカグヤマの首を鷲掴みにした。
フツノミタマが彼の血管と溶け合い、一つに繋がっていく。この瞬間、イワレビコは真に理解した。なぜ、不帰の森の奥で、数多の英雄が手にできなかったこの呪われた黒鉄が、自分にだけは抜けたのかを。
「俺が……誰よりも深く、貴様らを憎んだからだ。……道理を殺すと、あの日、俺が選んだからだ!」
イワレビコの背後に、おぞましい幻視が立ち上る。タカクラジ、ナガハ、そしてマカツで無惨に焼かれた数多の民たちの無念の影。それらすべての質量が、漆黒の刃へと乗る。
「喰え」
フツノミタマが一閃した。それは剣の一撃というより、世界の闇そのものが天を飲み込む咆哮だった。
――断。
カグヤマの六つの翼が、光を失って霧散する。
純白の首が宙を舞い、黄金色の神血が雨となって、マカツの灰の上に降り注いだ。空を覆っていた戦船が、核を失い、断末魔のような軋み音を立てて崩壊し始める。
神軍が、敗北した。人間一人の執念が、天の理を打ち破った瞬間だった。
アメノカグヤマの首を落とした夜、マカツには祝杯の音も、勝利の咆哮も響かなかった。そこにあるのは、崩壊した白金戦船の残骸が地上に降り注いだことによる新たな火災と、黄金色の染みに汚れた灰の海だけだった。
イワレビコは、かつての高台の宮殿があった瓦礫の上に座り、フツノミタマを膝に置いていた。彼の左腕は、もはや人間の肉の色を思い出せないほどに黒く、硬く変質している。呼吸をするたび、肺の奥で黒い煤が舞う感覚があった。
一柱の神を殺す――その代償は、彼の寿命そのものを薪にして燃やしているに等しかった。
「殿、傷の手当てを……」
オオクメが、震える手で布を差し出す。イワレビコは答えなかった。黄金色に変色した左目が、遠く、暗闇の先を見据えている。
「オオクメ。……聞こえるか」
「……何がでございますか?」
「風の音が変わった。……恐怖の匂いが、遠くから集まってきている」
翌朝。
マカツの廃墟には、奇妙な光景が広がっていた。近隣の邑、あるいは遥か遠方の国から、ぼろを纏った者たちが列をなして集まってきたのだ。
彼らは神殺しの王を一目見ようと、泥にまみれた足をひきずり、マカツの門――今はもうただの木柵と石柱の残骸――をくぐってきた。だが、その瞳に宿っているのは希望だけではなかった。
「あの方が、神を殺した男か」
「怪物じゃないか。あの不吉な左腕を見ろ」
「あの方に付いていけば、もう供物を差し出さなくて済むのか? それとも、あの方のせいで、俺たちの村まで焼かれるのか?」
囁き声は、イワレビコの耳に明瞭に届いていた。
彼は立ち上がり、集まった群衆の前に出た。かつての王としての威厳は、今や禍々しい畏怖へとすり替わっている。
「……用件を言え」
イワレビコの声が冷たく響く。群衆の中から、一人の男が這い出てきた。かつてはどこかの国の戦士だったのだろう、ひどく傷ついた鎧を纏っている。
「イワレビコ王よ。……我らの国も、昨夜、神軍に焼かれました。アメノカグヤマという神が討たれたことへの連座として、無関係な村々が光に飲み込まれたのです」
イワレビコの眉が、わずかに動いた。
「我らは、あなたを恨みに来ました。……あるいは、あなたに縋りに来ました。もはや、この地上のどこにも逃げ場などない。神に許しを乞うて飼い殺されるか、あなたと共に天へ牙を剥くか。二つに一つしか、道は残されていないのです」
男が地面に額を擦り付ける。それに続き、数百、数千の民が、まるで黒い波のようにイワレビコの前に平伏した。
それは、勝利の証ではなかった。イワレビコが神を一柱殺したことで、世界は「供物を出す」という欺瞞の安定を失い、全滅か反逆かという極端な二択へと叩き落とされたのだ。
「……勝手にしろ」
イワレビコは冷たく言い放ち、背を向けた。
「俺は、お前たちを守るとは約束せん。ただ、神を殺す。その道中に、お前たちの死体が積み上がるだけだ」
「それでも構いません! 死を待つだけの羊でいるより、狼の影で牙を剥いて死ぬことを選びます!」
背後で上がる、絶望と狂気が混ざり合った歓声。
イワレビコは、フツノミタマの柄を強く握りしめた。剣が、低く笑うような不吉な振動を伝えてくる。イワレビコは、一人の孤独な復讐者から、地上すべての絶望を背負わされた「災厄の旗印」へと変わったのだ。
その頃、遥か高天原の最奥。
アメノカグヤマの戦死を告げる鐘の音が、静かに、しかし重厚に響き渡っていた。
整列する数万の神兵の前に、一人の大男が歩み出る。その男が歩くたびに、大気は激しい静電気を帯び、空間そのものが青い火花を散らした。
神軍将軍、タケミカヅチ。
「……虫が一匹、火をつけたか」
タケミカヅチは、地上を覆う雲海を見下ろし、退屈そうに呟いた。その手に握られた、荒ぶる雷光を纏う神剣が、不吉な閃光を放つ。
「清めではない。……根絶やしにせよ」
空のひび割れが、再び、より深く、より広大に走り始めた。
神殺しの誕生という噂は、甘美な希望などではなく、地上のすべてを消し去る「真の終末」の呼び水に過ぎなかったのだ。




