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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第1章 マカツ滅亡編)

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第11話

ここまで翻訳を終えた前野は、パイプタバコを片手にソファに座っていた。


「アメノカグヤマは確か山だったはず。山が神になったのか、これはなかなか興味深いな」


 夜明け前、マカツの廃墟を包んでいたのは、霧ではなく銀色の殺気だった。

 野営地の外周で見張りに立っていた三人の兵が、声を上げる暇もなく崩れ落ちる。首を跳ねられたのではない。ただ、喉元の細い血管を一筋、産毛を剃るような速さで完璧に断ち切られていた。


「……来たぞ。全員、起きろ!」


 イワレビコの咆哮が、黎明の静寂を破った。

 彼は既にフツノミタマを抜き、瓦礫の上に立っていた。黒い左腕が、かつてないほど激しく脈打っている。不浄の浸食は既に鎖骨のあたりまで及び、黒い血管のような紋様が首筋を走っていた。


 霧の向こうから、一人の男が歩いてくる。

 六本足の馬さえ連れていない。重厚な鎧も纏っていない。ただ、雪のように白い着流しを身に付け、腰に一振りの細身の直刀を差した、あまりに静かな男だった。


 男の顔に、あの神兵特有の固定された笑顔はない。ただ、研ぎ澄まされた鏡のような無表情。


「我が名はフツヌシ。将軍タケミカヅチが配下、天の刃なり」


 男の声は、風に触れただけで肌が切れそうなほど鋭かった。彼はイワレビコが持つ黒剣を一瞥し、わずかに眉を動かす。


「……その剣。かつて天が打ち捨てた忌み物。まさか、虫けらの手にあるとはな。カグヤマが不覚を取った理由が分かった。……不快だ」


 フツヌシが動いた。瞬きをする一瞬、彼の姿が完全に消える。


「ニニギッ!」

「分かってるッ!」


 ニニギが大楯を構え、イワレビコの前に割り込んだ。


 ――きぃぃぃぃぃんっ!


 耳を劈く高音が響き、ニニギの鉄の楯に、一本の鋭い白い線が走った。神の光による熱線ではない。ただの、物理的な斬撃。それも、分厚い鉄の塊を紙のように断ち切らんとする、極限の剣理だった。


「が、ああッ……重い! なんだ、この一撃は……!」


 ニニギの巨体が、わずか一太刀で数歩も強引に後退させられる。


「……楯か。無意味だな」


 フツヌシが再び消える。今度は、ニニギの背後に音もなく立っていた。


「逃がさん!」


 イワレビコがフツノミタマを横に払う。黒い影がフツヌシの軌道を正確に追い、大気を腐食させながら迫る。フツヌシは空中で身を翻し、黒剣の刃を自らの直刀の面で鮮やかに受け流した。

 火花が散る。黒と銀。二つの剣が、至近距離で激突した。


「……その腕。既に人ではないな」


 フツヌシの冷徹な瞳が、至近距離でイワレビコの黄金の左目を射抜いた。


「神を殺すために、自ら毒を喰らうか。……滑稽よな。その剣が貴様の魂を食い尽くすのが先か、我が貴様の首を落とすのが先か。試してみるか?」


 フツヌシの直刀が、目にも止まらぬ速さで突きを放つ。一、二、三。

 イワレビコの肩、脇腹、太もも――フツノミタマを振るう速さを完全に凌駕する、神速の刺突。


「ぐ……っ!」


 鮮血が噴き出す。だが、イワレビコは一歩も退かない。傷口から溢れる黒い霧が、フツヌシの白い着流しを蝕み始める。


「道理を説くのが、神の仕事だったか……?」


 イワレビコが、獣のような低い声で笑った。


「俺は、お前たちの速さにも正しさにも興味はない。……ただ、当てる。当てれば、殺せる」


 イワレビコは、自らの身体をフツヌシの剣線に晒した。肉を斬らせ、骨を断つ。それでも前へ出る、一点突破の狂気。直刀がイワレビコの右の脇腹を深く貫いた瞬間、彼は左手の黒い爪で、フツヌシの胸倉を強引に掴み取った。


「捕まえたぞ……フツヌシ」


 フツノミタマが、持ち主の命を薪にして削りながら、最大級の闇を纏って振り下ろされる。


「……なるほど。確かに狂っている」


 フツヌシは、貫いた自らの直刀を捨て、素手でイワレビコの胸を突き飛ばした。その凄まじい衝撃だけでイワレビコは吹き飛ばされ、瓦礫に激突する。

 フツヌシは無傷。だが、彼の着流しの袖は、黒く焼け焦げ、完全に消え去っていた。


「一太刀、我の装束に触れたか。……誉めてやろう、死人よ」


 フツヌシは、地面に落ちた直刀を指先一つで手元に呼び戻した。彼はなおも追撃ができる間合いにありながら、あえて手を止め、空を仰いだ。


「刻限か。……タケミカヅチ様がお呼びだ」


 空に、再び巨大な亀裂が走る。フツヌシは、ごみを掃いた後のような淡々とした様子で、倒れた王を見下ろした。


「次は、首を貰う。……それまで、その剣に食われぬよう、精々抗うがいい」


 銀色の閃光と共に、フツヌシの姿が掻き消えた。

 後に残されたのは、満身創痍のイワレビコと、深く切り裂かれたニニギの楯。そして、神軍の本気の「刺客」を目の当たりにし、腰を抜かして動けない民たちの沈黙だけだった。


「……ニニギ。生きてるか」

「ああ。……だが、次はねえぞ、イワレビコ。あいつ、まだ遊んでやがった」


 イワレビコは、震える右手で黒剣を地面に突き立て、辛うじて身体を支えた。

 勝てなかった。刺客一人、仕留めることさえ叶わなかった。だが、その瞳に宿る黄金の炎は、以前よりも一層、暗く、深く燃え上がっていた。

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