第4話
夜が明け、灰色の太陽が昇った。
マカツの国を包んでいたのは希望の光などではなく、すべてが焼き尽くされた後の、死の沈黙を容赦なく暴き出す残酷な明かりだった。
城門の前には、わずか数十人の生き残りが蹲っていた。
かつて数千の民を抱えた小国は、神兵一騎による「清め」によって、一夜にしてその命の灯を消し去られたのだ。
「殿、もはや……ここに留まるのは危険です」
オオクメが、血の混じった痰を吐きながら言った。彼の背後には、傷つき、絶望に目を腫らしたわずかな兵と、親を失った数人の子供たちが立ち尽くしている。
イワレビコは、ナガハの形見である折れた槍を杖に、よろめきながら立ち上がった。全身を焼くような激痛。だが、それ以上に彼を苛んでいたのは、己の無力さが招いたこの凄惨な光景そのものだった。
「どこへ行くというのだ。マカツの土地は死んだ。……俺が、殺したんだ」
「滅相もございません! 神の気まぐれに抗える人間など、この世のどこにも──」
「黙れ!」
イワレビコの怒号が、死の静寂を切り裂いた。だが、その声には以前のような王の力強さはない。ただの、追い詰められた獣の悲鳴に似ていた。
彼は折れた鉄剣を腰に差し、遠く広がる灰の平原の先を指差した。
「東だ。東の『不帰の森』へ向かう。神軍の目が届かぬ場所は、あそこしかない」
「不帰の森……! あそこは魔物の棲家、足を踏み入れた人間は二度と戻らぬと言われる禁忌の地ですぞ!」
「神に焼かれるのと、魔物に食われるの、どちらがマシか選べ、オオクメ」
イワレビコは冷たく言い放ち、歩き出した。王の象徴であった豪華な衣は、今や煤と血に汚れ、ただの重い布切れに成り下がっている。彼はそれを無造作に引きちぎり、道端に捨てた。
逃避行は、地獄そのものだった。
糧食はない。水も、神の光に打たれた川は白く濁り、口に含めば喉を焼く毒へと変わっていた。一行は泥水を啜り、木の根を噛んで飢えを凌いだ。一人、また一人と、傷ついた者たちが列から脱落していく。
動けなくなった老婆が、イワレビコの足を掴んで「置いていってくれ」と泣いた。かつてなら、彼は自ら背負っただろう。だが今のイワレビコには、その余裕さえ削ぎ落とされていた。
「……生きろ。死にたくなければ、這ってでもついてこい」
彼は老婆の視線を冷徹に振り切り、前だけを見て歩いた。
その後ろ姿を、生き残った民たちは怯えた目で見つめていた。救い主としての王ではない。死神に追い立てられるように進む、執念の塊がそこにあった。
三日目の夜。
森の入り口付近で、ついに神軍の追っ手が現れた。
だが、それは十二騎の本隊ではない。神兵が使役する神犬――首が二つあり、全身を忌わしい白い体毛で覆われた、異界の獣が三頭。
「ひいぃっ……!」
悲鳴が上がるのと同時に、神犬は逃げ惑う民の一人に飛びかかり、その喉笛を一瞬で食いちぎった。
イワレビコは、震える手で折れた剣を抜く。
「させるか……ッ!」
彼は神犬の眉間に斬りかかった。だが、神兵との戦いで負った傷が開き、肉体が思うように追いつかない。神犬の鋭い爪が、イワレビコの脇腹を深く抉った。
「が……はっ!」
吹き飛ばされ、泥の中に転がる。神犬がその牙を剥いて迫る。死の臭いが鼻腔を突いた。
意識が遠のく中、イワレビコは泥を掴んだ。またか、と心が呻く。また、俺は何も守れずに死ぬのか。タカクラジの笑顔。ナガハの最期の言葉。灰になった我が国。それらが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
その時、彼の指先が、泥の中に埋まっていた何かに触れた。
それは、ただの硬い石のようでもあり、冷たい未知の金属のようでもあった。イワレビコはその物体を無意識に掴み、迫りくる神犬の喉元へ、死に物狂いで突き出した。
ズブリ。
確かな肉感があった。
王家の鉄では傷一つつけられなかったはずの神の眷属の皮膚を、その物体は、まるで濡れた紙を裂くように容易く貫いていた。
「……あ?」
神犬が短い悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちる。
返り血を浴びながら、イワレビコは自分の手にあるものを見た。それは、石に半分埋まった、錆び付いた黒い杭のような欠片だった。だが、その不気味な黒光りは、周囲の月光さえも強欲に吸い込んでいるかのように見えた。
残りの二頭が、仲間の死にたじろぎ、唸り声を上げながら後退していく。イワレビコは、その黒い欠片を握りしめたまま、獣のような目で神犬たちを睨みつけた。
「来い……食えるものなら、食ってみろ……!」
その瞳に宿ったのは、到底正気のものとは思えぬ光だった。王としての尊厳も、慈悲も、すべてを灰の中に捨て去った、ただ一人の復讐者の輝き。神犬たちは本能的な恐怖を感じたのか、夜の闇の中へと逃げ去っていった。
静寂が戻った。生き残った民たちは、地面にへたり込み、荒い息をついている。
イワレビコは、自分の手のひらを切り裂いている黒い欠片を見つめた。
そこから、冷たい、凍りつくような声が、脳裏に直接響いた気がした。
『神を……殺したいか』
「ああ」
イワレビコは、泥にまみれた顔で低く笑った。血と泥が混じり、もはや王の面影はない。
「殺せるなら……この魂、いくらでもくれてやる」
不帰の森の奥から、不気味な風が吹き抜けた。それは、彼をさらなる深淵へと誘う、古代の敗者たちの囁きのようだった。




