第5話
不帰の森。
そこは光さえも木々の呪縛に囚われ、地表に届くことを許されぬ拒絶の地だった。
イワレビコたちは、その底冷えする深淵を這うように進んでいた。
追ってくる神犬の遠吠えはいつしか止んでいたが、代わりに森そのものが自分たちをじわじわと消化しようとしているかのような、重苦しい圧迫感が一行を包み込んでいる。
「殿、その破片……やはり、今すぐ捨てたほうがよろしいのでは」
背後からオオクメが、歯の根も合わぬ怯えた声を絞り出した。
イワレビコの手の中には、数日前、泥の中から掘り起こした黒い欠片があった。それは時折、生き物のように脈打って熱を持ち、あるいは氷のように冷たくなりながら、イワレビコの精神をじりじりと削り続けている。
だが、イワレビコはそれを決して離さなかった。これが、あの神の眷属を屠った唯一の事実だからだ。
「……黙って歩け。俺は導かれている。この、おぞましい毒にな」
森の最深部。そこには、いかなる古地図にも記されていない空洞が存在していた。
かつては神殿だったのか、あるいは巨大な墓所だったのか。崩れ落ちた石柱の隙間に、赤黒い苔が血のように這い、その中央には、一本の朽ち果てた剣が突き立っていた。
刃は不規則に欠け、全身が煤けたような漆黒に覆われている。それは剣と呼ぶにはあまりに無惨な、鉄の塊に過ぎなかった。
しかし、イワレビコが近づくにつれ、手の中の欠片がこれまでにないほど激しく共鳴を始めた。
「待て。何かがいる」
側近であり、イワレビコと同い年のニニギが低い声で警告し、大楯を構える。
石柱の影から、ゆっくりとそれが現れた。
神兵ではない。かといって、野の獣でもない。かつて人間であった名残を留めながら、全身がこの森と同じ黒い樹皮のようなもので覆われた異形。
それは、かつて天上の神に挑んで敗れ、この地に辿り着いた果てに朽ちた「先住の者たち」の亡霊だった。
『……殺したいか』
亡霊が、掠れた声で問うた。それは耳に届く音ではなく、脳髄に直接響く、腐った泥のような響きだった。
『天を憎み、神を呪い、その身が泥に沈むまで、血を流し続ける覚悟はあるか』
イワレビコは、その亡霊を真っ向から睨み据えた。右肩の傷が、神兵に刻まれた屈辱の痕が、引き裂かれるように熱い。
「今更だ。俺の魂など、とっくにあの朝に焼き尽くされている」
亡霊が、ゆっくりと道を空けた。イワレビコは躊躇なく、中央の黒い剣へと歩み寄る。
『その剣の名はフツノミタマ。神を断つための牙。だが知れ。神を殺す剣を振るう者は、もはや神が愛した世界の住人ではいられぬ。貴様の時間は止まり、心は闇に食われ、愛する者たちの温もりさえ、二度と感じられぬ氷の塊となるだろう』
「……上等だ」
イワレビコは、その柄を固く握りしめた。
その瞬間、凄まじい衝撃が全身の血管を駆け抜けた。
「が、あああああああッ!!」
血管に沸騰した鉛を直接流し込まれたかのような激痛。目、耳、鼻、あらゆる穴から鮮血が噴き出す。視界から完全に色が消えた。
漆黒の剣身から、数千年の怨念が滔々と流れ込んでくる。神によって奪われた命、神によって消された文明、神によって汚された誇り――それらすべてが、イワレビコの肉体を器として、一つに溶け合っていく。
バキ、と、肉と骨が作り変えられる不吉な音が響いた。
イワレビコの左腕が、不自然な漆黒へと変色し、その皮膚を硬質な鱗のようなものが覆い始める。神殺しの代償。それは、使用者自身が人間ならざる異形へと変質していく呪いそのものだった。
「殿……! その手を離してください!」
オオクメが駆け寄ろうとするが、剣から放たれた圧倒的な負の気圧に弾き飛ばされる。イワレビコは血の涙を流しながら、ゆっくりと、しかし確実にその剣を引き抜いた。
ズ、ズズ……。
石座から抜けたその剣は、抜身の刃であるにも関わらず、周囲の光を強欲に吸い込み、完全な「影」としてそこにあった。
圧倒的な殺意。神という理に対する、地上の総意がそこにある。
「……終わったぞ。オオクメ」
イワレビコが振り返った。
その左目は、かつての王の慈悲を完全に失い、冷酷な獣のような黄金色に輝いていた。彼が一歩踏み出すたびに、足元の草花が瞬時に枯れ、黒く変色していく。
「これで、奴らの首が届く場所まで降りてくる」
ニニギは、イワレビコのその変貌を、息を呑んで見つめていた。救世主ではない。自分たちが手に入れたのは、世界を滅ぼしかねない、猛毒の牙だった。
「……イワレビコ。お前、本当にそれで行くんだな」
「これしかないんだ、ニニギ」
イワレビコは黒く染まった自分の左手を見つめ、自嘲気味に低く笑った。もはや、自分の心臓が刻む鼓動さえ、どこか他人のもののようだった。
不帰の森に、かつてないほど不吉な静寂が戻った。
王は死んだ。そこには、一振りの黒い剣と、それを振るうための怪物が立っていた。




