第12話
フツヌシが去った後のマカツは、死よりも重い沈黙に支配されていた。
神の本気の片鱗を見せつけられた民たちは、もはや平伏する気力さえ失い、ただ壊れた人形のように瓦礫の中に座り込んでいる。
「……あいつは、また来る」
イワレビコは、血に汚れた右手を焚き火にかざしながら呟いた。
右肩の刺突痕は、神の呪いか、治癒を拒むように黒く変色している。フツノミタマの侵食と、フツヌシに刻まれた傷。イワレビコの肉体は、内と外から神殺しの過酷な代償に蝕まれていた。
「次は、俺の楯も持たねえぞ。……イワレビコ、何か手はねえのか」
ニニギが、無惨に切り裂かれた真金の大楯を研ぎながら訊ねた。
答えはなかった。力で届かぬのなら、智で穿つしかない。だが、神という理不尽の構造を、この地の人間は誰も知らなかった。
「――神の肉を裂く方法は知っていても、神の家の壊し方は知らぬようだな」
闇の中から、不意に声が響いた。
ニニギが即座に大楯を構え、イワレビコが黄金の左目で影を射抜く。
そこに立っていたのは、一人の男だった。戦士のような荒々しさはない。煤けた灰色の外套を纏い、顔の半分を深いフードで隠している。だが、その隙間から覗く瞳は、感情を削ぎ落とした氷のように冷たく、暗かった。
「何者だ」
「名は、スイゼイ。……かつて、天の足元で神の靴を磨いていた男だ」
男――スイゼイは、地上の王をあざ笑うような足取りで焚き火の傍まで歩み寄ってきた。
オオクメが、その名を聞いて顔色を変える。
「スイゼイ……まさか、西の果てで神に反旗を翻し、一国を灰にしたという、あの裏切り者の祭司か!?」
「祭司、か。……古臭い呼び名だな。俺はただ、神の化けの皮を剥ごうとして、返り討ちにあった死損ないに過ぎん」
スイゼイは、イワレビコの黒く変質した左腕を、無造作に掴んだ。冷たい。その指先からは、生きている人間とは思えぬほどの虚無が伝わってくる。
「……フツノミタマ。よくもそんな呪物を引き抜いたものだ。お前の命、持ってあと数節といったところか」
「貴様に、何がわかる」
「わかるさ。神を殺すには、神の法を知らねばならん。お前がやっているのは、嵐に向かって闇雲に剣を振っているのと同じだ。……教えてやろうか。神軍の拠点がどこにあり、奴らが何を恐れているかを」
スイゼイの言葉に、場が凍りついた。
神の拠点を叩く。それは待つだけの防衛戦から、こちらから地獄へ踏み込む侵略への転換を意味していた。
「なぜ、俺たちに手を貸す」
イワレビコが、スイゼイの胸倉を荒々しく掴み上げた。
「俺一人の憎しみでは、神の椅子には届かなかった。……だが、その黒い腕を持つお前という『火種』があれば、天を焼き尽くす大火になるかもしれない」
スイゼイは首を絞められながらも、薄気味悪い笑みを浮かべた。その瞳の奥にあるのは、正義でも救済でもない。神という絶対者を、自分と同じ泥の中に引きずり下ろしたいという、底なしの怨恨だった。
「信じられるか、こんな奴!」
ニニギが唾を吐き捨てる。
「信じる必要はない。……だが、今のままではフツヌシが次に来た時、お前たちは全員、綺麗な灰になるだけだ」
スイゼイは外套の中から、一枚の奇妙な地図を取り出した。それは人間の羊皮紙ではない。半透明の膜のようなものに、光る筋が脈動するように描かれている。神の国の、冷徹な縮図。
「北の断崖。そこに、神軍が地上の霊脈を吸い上げるための『楔』がある。そこを壊せば、神の鎧は一時的にその輝きを失う。……お前の黒い剣なら、その心臓を貫けるはずだ」
イワレビコは、スイゼイを放した。
この男は、猛毒だ。関われば、自分たちもまた、取り返しのつかない闇に染まるだろう。だが――。
「……案内しろ、スイゼイ」
「殿! 罠かもしれませんぞ!」
オオクメの制止を、イワレビコは片手で制した。
「罠なら、その時あいつの首を飛ばすだけだ。……座して死ぬより、毒を喰らってでも前に進む」
スイゼイは、深くフードを被り直した。
「賢明な判断だ、イワレビコ。……歓迎しよう。地獄の最前列へ」
新たな欠片が加わった。
王、盾、そして案内人。
マカツの灰の中から、神の喉元を狙う牙が、本格的にその形を成し始めた。




