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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第1章 マカツ滅亡編)

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第2話

「二十七度でございます」

「二十七、だと?」


 神軍が去った後には、重苦しい静寂だけが残るはずだった。

 だが、その日の午後は違った。

 空の亀裂が閉じてから数時間。村人たちがようやく、奪われた者たちの名前を呼んで泣き始めた頃――再び、あの不吉な「音」が不意に響き渡った。


 ガチリ、ガチリ。

 それは、硬い石の上を、あまりに重量のある何かが歩く足音だった。

 村の広場。供物を奪い去ったはずの神兵が、一騎だけ、傲然とそこに戻ってきていた。


 六本足の馬。その蹄が地面を打つたびに、再び土が黒く焦げていく。馬上の神兵は、相変わらずあの不気味な、面に張り付いたような笑顔を浮かべていた。

 村長が、震える膝をつきながら再び這い出てくる。


「か、神よ……何用でしょうか。供物は、確かに……」


 神兵は答えない。ただ、乳白色の眼球をゆっくりと動かし、村の家々を見渡した。

 その冷酷な視線が、ある一点で止まる。

 タカクラジの家だ。数時間前に主を連れ去られ、遺された妻が赤子を抱いて泣いている、あの小さな家だった。


 神兵は、腰に差した剣を無造作に抜いた。

 金属の擦れる音はしなかった。光を固体にしたような、白く透き通った長剣。

 神兵はそれをただ、タカクラジの家の屋根へと振り下ろした。


 ――轟音。


 剣が触れた瞬間、藁葺きの屋根は切られたのではなかった。光の奔流に飲み込まれ、内側から爆発したのだ。乾いた藁が、一瞬にして猛烈な炎を上げる。


「あああ……っ!」


 中からタカクラジの妻が、赤子を抱えて飛び出してきた。髪に火がつき、肌が焼ける。

 村の男たちが、たまらず駆け寄ろうとした。その一人、村で一番の力自慢だった若者が、薪割りの斧を手に神兵へと突っ込んでいく。


「よくも……よくもタカクラジを奪い、家まで……!」


 斧が神兵の太ももを目掛けて振り下ろされる。

 イワレビコは高床の宮殿から、その光景を凝視していた。


「止せッ!」


 だが、王の叫びは届かない。

 斧の刃が、神兵の白い鎧に激突した。

 響いたのは鈍い金属音ではない。パリン、という、薄い氷が割れるような、あまりに軽い音。若者の持っていた鉄の斧は、神兵の鎧に傷一つつけられず、粉々に砕け散った。神兵の笑顔は、微塵も変わらない。


 ただ、六本足の馬が、苛ついたように前脚を上げた。

 グシャリ。

 若者の頭部があった場所に、六本目の蹄が落ちる。

 悲鳴さえ上がらなかった。かつて人間だったものが、焦げた土と肉の塊になり、地面に沈んだ。


「汚れている」


 神兵が、初めて言葉を発した。それは歌うように美しく、そしてこの世で最も冷酷な判決だった。


「この地は、神へ捧げる『祈り』が足りぬ。不浄を焼き、清めねばならぬ」


 神兵が剣を横に一閃する。その軌跡に沿って、目に見えない熱波が円を描いて広がった。

 広場に面した家々が、次々と発火していく。逃げ惑う人々。神兵はそれを追うこともない。ただそこに留まり、世界が燃えていくのを、うっとりと眺めているだけだった。


 イワレビコは、高欄の木を握りしめていた。爪が剥がれ、指先から血が流れている。だが、痛みを感じる余裕などなかった。


「殿! 門を閉じろと命じてください!」


 オオクメが、必死の形相で彼の衣を引く。


「あの神兵は、我々の反応を見ているのです! ここで城が兵を出せば、国ごと滅ぼされます! 頼みます、イワレビコ様……今は、黙って見ていなければならないのです!」

「……民が、焼かれているんだぞ」


 イワレビコの視界の中で、タカクラジの妻が倒れ、炎に飲み込まれていくのが見えた。赤子の泣き声が、一瞬だけ高く響き、臨終の鐘のように消えた。

 タカクラジの、あの不格好な笑顔が脳裏に浮かぶ。あいつが命をかけて守ろうとしたすべてが、今、たった一騎の神兵によって、塵に変わろうとしている。


「俺は、王だぞ」


 イワレビコは、腰の剣を抜いた。代々の王から受け継がれた、マカツで最も優れた鉄の剣。


「王が民を捨てて、何が国王だ!」


 彼はオオクメを振り切り、高台から駆け下りた。馬に飛び乗り、木柵の門を強引に開けさせる。背後でオオクメの制止の声が聞こえたが、今の彼には、ただ自分の血が沸騰する音しか聞こえていなかった。

 燃え盛る村の広場。

 イワレビコの馬が、火の海をかき分けて神兵の前に躍り出た。


「そこまでだ!」


 神兵が、ゆっくりと首を傾けた。乳白色の目が、馬上の王を捉える。


「人間。お前も、清めを望むか?」

「黙れ。貴様らに清められる覚えはない」


 イワレビコは馬を走らせた。渾身の力。王家伝来の剣技。神兵の首を狙い、鋼の刃が風を切る。確かな手応えがあった。イワレビコの剣は、神兵の首に、完璧な角度で食い込んだはずだった。


 ――キィィィィィィンッ!


 耳を劈くような高音が響く。

 イワレビコの手首に、凄まじい衝撃が走った。剣は折れていなかった。だが、神兵の肌に当たった瞬間に、まるでおもちゃのように跳ね返された。傷一つ、皮膚をかすめることさえ、叶わなかった。


「……何?」


 イワレビコが驚愕に目を見開いた瞬間、神兵が光の剣を横薙ぎにした。それは攻撃ですらなかった。虫を払うような、あまりに軽やかな動作。


「あ……」


 次の瞬間、イワレビコは馬ごと吹き飛ばされていた。視界が回転し、地面に激突する。

 右肩に、焼けるような熱さが走った。見れば、豪華な王の衣が裂け、肩の肉が、まるで高熱の鉄を押し当てられたように抉れている。


 神兵は、馬から降りることさえしなかった。ただ、六本足の馬を歩かせ、倒れたイワレビコのすぐ傍に寄せた。

 巨大な蹄が、イワレビコの顔の真横に振り下ろされる。衝撃で地面が陥没し、イワレビコの耳から血が噴き出した。


「弱い」


 神兵の、あの笑顔。嘲笑ですらない。ただの、事実の確認。


「これほど弱いものが、なぜ、牙を剥く。神の恩寵を理解できぬなら、その魂ごと、灰になるがいい」


 神兵が剣を高く掲げる。村全体を焼き尽くすほどの光が、その剣身に集まっていく。

 イワレビコは、立ち上がることができなかった。折れた肋骨が肺を突き、呼吸をするたびに血が溢れる。

 これが、神。


 人間がどれほど血を吐き、呪い、武器を鍛えようとも、決して届かない、決して傷つかない、圧倒的な天災。

 死を覚悟したイワレビコの目に、燃え盛るタカクラジの家の跡が見えた。


(すまない、タカクラジ……)


 神兵の剣が、振り下ろされる。

 すべてが白い光に飲み込まれようとした、その時だった。

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