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倭王年代記  作者: 水前寺鯉太郎
巻の二:神殺し戦記(上)(第1章 マカツ滅亡編)

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第1話

「――本記録は事象の発生順ではなく、石板への刻字順に従い記述される」


 前野は研究室のソファに深く腰を下ろすと、おもむろにパイプタバコに火をつけた。

 ゆったりと立ち上る紫煙をくゆらせながら、新しく検出された石板の解読を進めていく。恐ろしい真実がめくられるたびに、前野の胸は高鳴っていた。不謹慎かもしれないが、この未知なる歴史を紐解く作業が、今や楽しくて仕方がなくなっているのだ。


 ――イワレビコ九年、卯月の半ば。その朝、空が割れた。

 雲一つない晴天に、突如として縦の亀裂が走った。まるで、誰かが青い絹布を鋭利な刃物で引き裂いたかのように。


 そこから漏れ出す光は、太陽のものではなかった。白すぎる。そして、冷たすぎる。生き物の肌を暖めるための光ではなく、冷徹な石碑の上に落とされるための、無機質な光だった。


 村人たちは空を見上げ、一斉に動きを止めた。

 鍬を持ったまま老人が固まり、桶を抱えた女が立ち尽くす。子供たちだけが、最初は綺麗だと思ったのか歓声を上げたが、大人たちの凍りついた横顔を見て、すぐに声を失った。


 誰もが本能で知っていたのだ。この白い光が、何を意味するのかを。


「来た」


 誰かが呟いたが、その声の主を確認しようとする者は誰もいなかった。そんな心の余裕は、誰にも残されていない。

 亀裂の奥から、神軍が降りてくる。

 最初に現れたのは、軍旗だった。金と白で織られた豪奢な布が、風もないのにはためいている。次に、馬。それは人間の知る獣ではなかった。足が六本あり、鬣は燃え盛る炎のように赤く、地面に蹄が触れるたびに土が黒く焦げた。


 そして、馬上に座す者たちの顔は、人間に似てはいるが、決定的に異質だった。

 目に虹彩がない。すべてが白一色。そして、口元だけが微かに吊り上がっている。表情を一切変えずに、ただ、不気味に笑い続けているのだ。


 神軍の数は、わずか十二騎。

 だが、たったそれだけで、この村の四百人を完全に無抵抗にさせることができる。それが、この世界の絶対的な『ルール』だった。


 城の高台から、イワレビコはそれを見下ろしていた。

 二十七歳。小国「マカツ」の王。父が死んで九年、この過酷な辺境を治めてきた男だ。


 背は高く、肩幅は広く、顔にはすでにいくつかの傷がある。戦場で刻まれた名誉の傷ではない。神軍の馬に踏みつけられた痕――かつて、理不尽な搾取に抗議に向かった父の隣で、幼い彼が受けた屈辱の烙印だった。


 彼は拳を握り、黙って見ていた。

 村の広場に、十二騎の神軍が整列していく。村長が進み出て、泥に額がつくほど深く頭を下げた。神軍の先頭に立つ者が、人間の言葉で、しかし感情の全く籠もらぬ声で告げる。


「今期の供物を受け取りに来た」


 村長がもう一度頭を下げ、何かを答えた。ここまでは声は届かないが、イワレビコにはその内容が痛いほどわかった。「準備しております」と、そう答えたのだ。


 間もなく、村の中から人間たちが連れ出されてきた。縄で繋がれているわけでも、檻に入れられているわけでもない。ただ、自分の足で歩いてくる。うつむいて、絶望に足を引きずりながら。


 今期選ばれた「供物」は、十五人。老人が二人、女が八人、男が五人。年齢も体格もばらばらだ。神軍が何をもってこれを選別しているのか、人間側には知る術もない。 


 ――供物。


 その言葉が、イワレビコの口の中で苦く転がった。血の混じった鉄の味がした。

 連れ去られた人間が神の国でどうなるか、誰も知らない。帰ってきた者は一人としていないからだ。神の宮殿を建てるための奴隷にされるのか、神の食料になるのか、ただ玩具のように殺されるのか――不気味な噂だけが飛び交うが、どれが本当かはわからない。ただ、「二度と帰らない」という冷酷な事実だけが、死よりも重く村にのしかかっていた。


 十五人が、六脚の馬の後ろに並ばされる。

 その中に、イワレビコは知った顔を見つけた。

 マカツの百人隊隊長、タカクラジ。イワレビコの幼馴染であり、無二の親友。昨年、「子供が生まれた」と不器用に照れ笑いを浮かべていた、あの男だ。


 タカクラジは空を見上げていた。いや、正確には城の方向を――イワレビコがそこにいると気づいて、睨み据えていた。しかしその表情からは生気が消え失せ、ただ白い光の中へと吸い込まれていく。


 親友の背中が光の亀裂に消える瞬間、イワレビコは城の石の欄干を握りしめた。指の骨が砕け、爪が剥がれ落ちそうなほどに、強く、強く。


 夕方、城の一室でイワレビコは一人、佇んでいた。

 杯に酒が注がれていたが、手はつけていない。ただ机の上で冷えていく。窓から見える村は、不気味なほど静まり返っていた。あの白い光が消えた後、誰も声を出さず、泣く者すらいない。泣くことの無意味さを、この国の人間はもうずっと前に叩き込まれているのだ。


 扉が静かに開き、老臣のオオクメが入ってきた。


「殿」

「わかっている」


 イワレビコは振り返らずに言った。


「何も言うな」

「しかし……」

「何も言うなと言った」


 オオクメは、イワレビコの父の代から仕え、この国の冷酷な『構造』を誰よりも知っている。若い頃は弓の名手として名を馳せ、弓頭となった男だ。彼が今から何を言おうとしているか、痛いほどわかる。「これが現実だ」と。「神に逆らうことは滅びだ」と。「先代も、その前の王も、これを受け入れて国を繋いできたのだ」と。


 すべてが正論だった。だからこそ、今は聞きたくなかった。


「タカクラジの子は」


 イワレビコは、絞り出すように訊ねた。


「生後八ヶ月にございます」

「母親は健在か」

「はい」

「家に不自由がないよう、城から十分な手当てを出せ。絶対に飢えさせるな」

「承知いたしました」


 オオクメがなおも言葉を続けようとしたが、イワレビコはそれを遮るように言った。


「今日で、何度目だ」

「殿?」

「俺が物心ついてから――」

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