第3巻 第九話 担当になる
朝の一刻目、ノアは管制席の長机に、三枚の紙を並べた。一枚は原本の写し。一枚は王都治療工房の作業紙。もう一枚は、山地から運ばれたよれた通信短片だった。昨夜の前なら、同じ大きさの紙にしか見えなかった。今は、それぞれの紙の向こうに、分けて書かれた時間が立っている。
工房の紙には、薬布の乾燥完了の刻。山地の紙には、製粉所の石臼がまだ動かないという短い返答。原本の余白は、二つの紙の間で、今度は待っていた。
リデルが席へ来た。左手には、今朝の伝声の記録がある。「工房の二人分は乾燥済み。残り四人分は三十分遅れ。山地は共同炉へ麦を入れた。臼はまだ、だ」
ノアは二つの刻を小さい紙片に写いた。「次に確かめるのは、工房の残り四人と、共同炉から粉を待つ家への渡し方です。臼が戻ったという返答だけでは足りません」
「なぜ」
「臼が動いても、粉が低い方の家へ先に行くとは限らないからです。麦粒を、粉のある家の炉へ移しただけかもしれない」
リデルはうなずきもせず、その紙片を見た。「その確認を誰の名で出す」
ノアは筆を持ったまま、立ち止まった。昨夜の筆跡は、山地の事情を後日へ送った筆跡だった。今ここで、「監察席」と書けば、同じように名前のない後日が残る。
「ノア・アルド。配分照会担当の名です」
言ってから、それは役職の名にすぎないと思った。リデルの目は、まだ紙片から離れない。
「担当とは、どこまでだ」
ノアは筆先を下げた。「まず、工房が三十分遅れた四人の薬布を、実際に渡せたか確かめます。名前と、渡した刻と、その間に代わりの布があったかを聞く。次に山地の共同炉に、粉を待つ家の名と、今朝の粥が何杯出たかを聞く。二つの返答がそろってから、次の一刻の割り振りを書きます」
「失敗したら」
「大事な返答がなくて、割り振りを止めたら、山地の道で話します。工房にも、伝声だけで済ませず、当直の人へ文書を届ける。どちらの家に何を待たせたか、私が言います。二刻の終わりまでに山地から返らなければ、その時点で計画を戻します。今回した熱を、元の約定どおり工房へ戻す」
「誰から押し戻せと命じられたら」
「その名を紙に記して、監察席と山地の両方へ送ります。その人の指示で動いません。契約原本の余白へ、指示ごとに押す印を作ります」
リデルはそこではじめて、手帳に筆を乗せた。「なら、配分照会担当と書け。但し、名だけで終わらせない。我々の席ではなく、待つ人の前でそれを言え」
ノアは紙片の上に名を書き、受領印の横へ貼った。書き終えたとき、席の外の広間から、板を打つような音がした。屋根から雪が落ちた音だった。
エマが戸口に立っていた。濡れた外套の袖から、山地の土の匂いがした。今朝、製粉所から来た人に同行して、通行の許しをもらったと後で聞いた。
「いまのを、村で言えるの」
ノアは席の紙を持ち上げた。「言えます」
「じゃない。村で話せ。この部屋で、確認するとか、失敗したら説明するとか、そう言っても、炉の前で粥を炊いてる人は聞いてない」
エマの声は、怒鳴りではなかった。けれど、長机の紙に残された名前より、重くひびいた。ノアはその紙を置き直した。村の運ばれた短片には、今朝も「集まる場所の灯を止めない」とあった。待つ人は、自分の家の粉が来るからという理由だけでは、集まっていない。
「村のどこですか」
「避難室の炉の前。粉が戻ってくる前に。そこで、だれの家が待っているか、それぞれが言う」
エマは戸枠に寄りかかったまま、ノアの紙片をあごで示した。「そこに書いてある「粉を待つ家」って、どの家か知ってるの」
ノアは答えるまでに、一度息をすった。ブラムの返答には、家の数しかない。数があることと、その数の中にいる人を知っていることは、違う。
「まだ、知りません。ブラムの紙には三十七軒としかない。だから、村で、三十七軒がどこにあるか確認します。子供がいる家、病人がいる家、炉を共有している家。列にはしません。その場で、まだ粉がない家を聞きます」
「聞いて、どうする」
「ブラムへ、石臼が回った刻と袋の数を返すよう言います。但し、村の話と合わなければ、袋の数だけでは終わらせません。誰かの家に置いてきたなら、その家の前まで追います。それができなければ、次の熱は山地へ回しません」
エマの口元が、ごく少しだけ動いた。「そういう返答を、村の前でして。村の人が名前を言ったら、記録にはどう残すの」
「家の名をそのまま送ると、村を参照番号にしてしまう。宛先へは、粉の有無と、待った刻を送る。家の名は、村の写しにしか記さない。その写しは、エマさんと、炉の前にいる人が確かめる」
「私が確かめると書くの」
「二人の名を並べます。但し、村の方の写しには、エマさんの下に私の名を置きます。官府の方は、私が記録したと書く。受け取った人に、責任を押しつける書き方はしません」
エマは目を細めた。「きれいな書き方だね。でも、村の写しに書くだけで、後から「違った」と言われたら」
ノアは一度、原本の余白を見た。「違ったと言われた紙も、今日の結果に結びます。次の分がどこへ行くかを書く前に、違ったと言う人の前で説明します。そのための紙を、村から持ち出します。戻すのは今夜の二刻が終わる前です」
「今から向かいます。ただ、工房の四人分の返答も、同じ紙に書いて持って行きたい」
「工房の紙を持ってくるのはわかった。けど、こっちの人の答えを、また王都へ持ち帰るだけにするな」
ノアはエマの青い指先を見た。雪の中で走った人の手だった。自分はこの部屋で、名前と刻を並べている。エマは、その刻のあいだに冷える手を見ている。同じ「待つ」でも、背負うものが違う。
「村の返答は、その場で紙に書きます。待つ家がないなら、その場でないと書く。待つ家がいても粉が届いていないなら、それも書く。その紙の写しを村に残します。工房への返答も、その写しを見せてから出します」
エマはすぐにはうなずかなかった。「粉が来なかったら」
「私がその場で説明します。今日の二刻が終わるまでに、粉の行き先を確かめられなければ、山地へ回した分は止める。どの家が粥でつないだかも、その場で記す。そのために、担当になるのです」
エマはノアの手から紙を取った。読み上げるでもなく、まっすぐに紙の中央をさけた。「ここ。「返答なし」の欄は、どうするの」
ノアはその欄を見落としていた。空欄ではない。けれど、だれが返答なしを確かめ、どこまで待つかが書いていないとき、その欄は空白と同じだった。
「返答なしと書く前に、伝声石の保管係と、村の炉の前の二人に聴きます。どちらも確かめられなければ、「連絡なし」と書く。「返答なし」とは書きません。返さなかったのか、届かなかったのか、分けられないからです」
「それで、その欄に印を押す人は」
「私です。ただし、私が村へ来られない日は、押さない。代わりの名を先に書かない限り、割り振りも出さない」
エマは紙を戻した。「今日、雪が強くなったら」
「官府に戻る前に、村の炉の前で止めます。戻る刻は、席が決めるのではなく、その場で雪と灯を見て決めます。その判断を、席へ持ち帰ります」
ノアは言い終えて、二枚の写しの上に、別の小さい紙を重ねた。「山地で記入」と、大きく書いてある。二枚のままでは足りない。それを知らせるための三枚目だった。
リデルが、長机の上の伝声記録を紐でしばった。「その場で名乗り、その場で一枚目の写しを渡せ。席に戻ってくるのは、二枚目が村の印とともに返ってからだ」
ノアはうなずいた。新しい紙の標題は、「山地と王都の二刻案」ではない。「配分照会の結果」と書いた。標題の下に、筆を止める人の名前と、返す刻、説明する場所を三行で並べた。
エマが戸口から、振り返らずに言った。「その紙を落とすなよ。村は、そういう紙を待ってるんじゃない。その紙を持って来た人を待ってる」
ノアは紙を折らず、両手で持った。「分かっています。村で話します。今日の結果が、あの炉の前に戻るまで、私の担当です」
エマはそれに返事をせず、雪の明るい戸口を出ていった。ノアは彼女の足跡の方へ、原本の余白を持って歩き出した。
長机の上に残した、昨年までの照会簿は閉じないままだった。だが、ノアはそれを席に置いていく。持っていくべきなのは、証拠の重さではない。その紙の前で、今日の返答を聞き、止めるときに止めると言った自分の名前だった。その名前を、村の人たちの声の中で、もう一度書くために。仮書記の筆ではなく、配分の結果を戻す担当の筆で。待たせた人の声も、結果とともに残すための筆で。雪の道へ向かう足を、ノアは止めなかった。




