第3巻 第八話 署名の余白
管制席の雪明かりが薄れるころ、ノアは保管室の扉の前に立っていた。扉の板は水を吸って黒く、鋼の取っ手は冷たい。受領印を押したあの原本は、一時的な割り振りの紙とは別の箱に戻されているはずだった。
「封蝋を割るなら、私の目の前で」
中から声がした。保管係のセドは、灯の芯を短く切り、火屋の方へはさみを置いた。年を取った男で、汚れた台帳も、セドの手にかかると新しい封筒みたいにきっちり揃った。
「突発の照会です。例外欄の更新記録も見たい」
ノアが受領簿を差し出すと、セドはとりわけ試すような目を向けた。その後ろに立つリデルの制服へ視線を移し、ようやく簿の空きを指でたどった。
「原本と付属紙三箱。更新は古い順です。ただし、今夜の割り振りを後から原本へ繋ぐのはやめてください。繋げば、元の書き方が見えなくなる」
「繋ぎません」
それはノアのための約束でもあった。紙に答えを追い記すことは、空欄を見ることよりも楽だった。
セドが箱を運んできた。太い革紐は二度結ばれ、次の一度だけ官府の青い蝋が上から垂れている。ノアは先に蝋の端を指先でなでた。割れ目はない。けれど、原本の束の下に、古い茶色の蝋が薄く残っていた。一度開いて、その上からふたたび封じられている。
「この青蝋はいつのものですか」
「三年前の雪害の後だ。原本の點検という名目だった。開封の立会人は二人、署名もある」
リデルは席の端へ手袋を置き、セドが小刀で青蝋のきわを剥がするのを見守った。はぐると、封蝋の下に新しい紙が一枚はさまっていた。端が少し短く、契約の枚数に合わせた付け足しの紙だとすぐに分かった。
「差替え紙ですね」
ノアは言った。新しい紙の上段には、王都向けの送水量がそのまま残り、下段の一行だけが撤回線で消されている。「天候、込む者、発熱者への例外」という見出しの下に、署名のための空白しかない。
「空いているなら、残したままでもいい。だが、これは書くべき行が空いている」
リデルの声は、「欠けている」とは違った。ノアもうなずいた。日よけした欠損のような余白なら、だれかの都合で埋めなくていい。けれど、この余白には、判断する人の名も、召び返す印もない。
セドは別の箱から、布に包んだ紙束を出した。更新履歴と書かれた表紙の右上に、年号だけが七つ並んでいる。每年、新しい印と新しい表紙だけが増えていた。
「更新のとき、例外欄の話はしなかったのですか」
「したよ」とセドは言った。「その度に、王都向けの量を先に確定させることだけが決まった。例外は現地の事情を見て後で、と」
「後で誰が決めるかは」
セドは答えなかった。履歴の紙を一枚ずつ繰る手だけが、急がなくなった。一年目は「冬季の送水率」、二年目は「王都治療区の优先」、三年目は「受難時の代替供給」。表現は増えていくのに、例外の行は毎年、同じように空いていた。
ノアは付属紙の番号を写き取った。リデルはかなり離れたところから、「その年の照会簿を」と言った。するとセドは一度ためらった。定例の更新記録は人に見せる。だが、照会簿は、誰が答えを求め、誰が返さなかったかまで残すからだ。
「照会担当の受領印がある」
ノアは言った。自分の名前を豊かにする印ではない。紙を見せてもらうだけの一押しだった。セドはその印を見て、三つ目の箱の底から薄い帳面を押し上げた。
帳面の上半には、山地の雪崩れとみられる書き込みがあった。「込む者」という言葉の横に、照会先の名が三つ。山地治療所、製粉所、避難室。そのどれにも返答欄はなかった。右側には、「王都先行」とだけ赤い線で書き込まれている。
「これでは、空白が人を後ろへ回したわけじゃない」
ノアは、どうしてか声を低くして言った。「王都を先にすることは、毎年書き足された。でも、込められた人をどう戻すかは、誰も自分の名で書かなかった」
リデルはノアから帳面を取らなかった。「空欄は、判断を元に戻すためにあってもいい。けれど、元に戻す人も、戻される人も、決めないままでは、はじき出すための穴になる」
灯が一度ゆらいだ。ノアは帳面の端を持ち上げた。「王都先行」の下に、小さい文字が残っている。「後日照会」。筆のはたらきは、多分、工房の依頼を写き写した人のものだった。
けれど、その文字の「照」の第一画が少し長い。「会」の上部が潰れたように細い。ノアはその字をすぐには読めなかった。読めないふりをしたまま、指の腹でその迹をなぞった。
「その後日照会は、どこへ出した」
リデルの問いで、ノアは手を離した。セドは帳面の綴じ目を四章ほどめくった。各章の端には、返答済みを示す小さい柱が印刷されている。けれど、山地治療所と避難室の行には、印も署名もない。王都治療区の行だけが、「受領」と「送水完了」の二重の印で濡れている。
「出すところは、その都度違ったんだろう」とセドは言った。「ただ、返信の表紙は官府のみだ。現地へ届いたかを書く欄はない」
「なぜ、付けなかった」
その問いは、誰かを責めるためのものではなかった。ノアはそう思っていた。けれど、セドの肩がわずかに縮むのを見て、その言い方は責める言い方と変わらないと分かった。
「後で決めるとしか書いてないからだ。あとから来た人は、前の人が決めると思う。前の人は、次の人が紙を埋めると思う。その間に冬が終わる」
リデルはその言葉を帳面の余白に写き取らなかった。代わりに、照会先の行へ赤い小さい印を置いた。「未回答」という印だった。新しい案に欲しいものは、まだ署名の上手さではなかった。返ってこない声を、なかったことにしないための印だった。
ノアは二冊目の照会簿を開いた。こちらは雪害の翌年のものだった。山地側の照会先の横に、「遠隔のみ」と書い足されている。試験通信のための伝声石があるから、返答を取れるという理屈だった。だが、その年の大雪では、伝声石を繋ぐ水路こそ凍っていた。
「未回答なら、計画を止めるべきだった」
ノアの口から出た言葉は、今夜自分がリデルに約束したことと同じだった。今はそれを言える。けれど、あの年の紙には、誰も書いていない。
セドは三冊目を取り出さず、扉の傍まで歩いた。保管室の外の建物で、どこかの鑿が一度鳴った。「それは、今も残っている。一番小さい箱に」
箱の底には、横半分に折られた照会記録があった。封蝋はなく、打ち返すための短い文だけが並ぶ。「王都の予約量は固定」。「山地の事情は後日の更新時に記す」。「今日は照会のみ」。どの文も、判断をせずに紙の外へ送るための文だった。
ノアは受領印の欄を探した。あるのは官府の受け取り印ではなく、仮書記の署名欄だった。四角くはっきりした字で、「照会文受け渡し」と書かれている。その下には、王都へ送る写しを作った人の署名がある。
ノアはまだ名を読まなかった。読めば、今夜の前まで自分がばらばらにしていた紙が、一つの過去になる。リデルは急かさなかった。登録のない空白と、登録された筆跡の間で、ノアは灯の明かりが少し細くなるのを見ていた。
「日付は」
リデルは文面の上へ指を置いた。その日は、山地の溪が封じたと最初の通信が届いた二日後だった。女子供の発熱も、製粉所の止まった時刻も、この紙の上ではまだ知られていないことになっている。
「知らせが届かなかったことと、知らないままにしたことは、分けて記すべきです」
ノアは言った。今夜の原本なら、その違いを例外欄の前に書ける。知らせが来なかったら・・・・・・、知らせを待たなかったら・・・・・・。二つの続きの後ろに、誰が止めるかを署名できる。あの年は、その行ごとノアの知らないところで封じられていた。
セドは、仮書記の名前のあとに赤い線がないことを確かめてから、帳面をノアの方へ滑らせた。「その年のお前さんは、ただの写しだと言っていた。だが、写しは元の文を見ている。見ていた者まで空欄にしてしまったら、紙はまったく動かなくなる」
ノアは気づいた。さっき、今夜の受領印の下へ名を書くときも、「照」の一画を必要以上に長く引いた。筆を止めるべきところを、まっすぐ進ませる癖は、子供のころから変わらない。
手のひらが冷たくなった。けれど、帳面を閉じたくはなかった。原本の余白は、今もそのままだった。頁の隅で、砂時計の音だけが次の照会を待っていたのだ。
保管係のセドが、ノアの手元と受領簿を交互に見た。
「それを書いたのは、お前さんだ。仮書記として、その雪の年に何度か来た」
ノアは原本の余白に目を落とした。そこはまだ何も書いていない。だが、「後日照会」と書き残した筆跡は、その余白がどう使われなかったかを、知っていた。




