第3巻 第五話 止まった石臼
エマは、止まった石臼の音を聞いたことがなかった。
伝声石の向こうは、さっきまで石と石が擦れる低い響きで満ちていた。いまは、粉を掃く箒の音だけがする。
『臼が止まった。灯が薄い』
ブラムの声は怒鳴っていなかった。それが余計に、エマの胸へ残った。
治療所の青灯は戻っている。ユリクの指先にも、わずかに色が戻ったと薬師が言った。けれど西村の石臼が止まれば、粉を待つのは一村ではない。ミレア、北坂、西村。三つの村の朝の鍋だ。
「粉はどれだけありますか」
エマは伝声石へ聞いた。
『西村は明朝まで。北坂は今夜の分。ミレアは、子どもの粥を除けば半日』
村で数えた袋の重さを、彼女は思い出す。薪なら枝を拾える。麦は石臼が止まれば粉にならない。丸のままの麦を鍋で煮ても、幼い子と熱のある者には重い。
病室の外で、ノアが配送札を並べていた。エマはそこへ行き、石臼の止まった刻を紙に書いてもらう。誰かを責めるためではない。治療所へ熱が届いた時間と、粉が止まった時間を同じ紙へ置くためだ。
「村へ戻ります」
彼女は言った。
「ユリクは」
「ここに置く。村の分まで連れて帰れない」
弟の靴は、まだ乾ききっていない。エマは名札を枕元へ置いた。表の名と、裏のミレアを、ユリクが目を覚ましたとき見られるように。
治癒院の外には、北山へ戻る荷車が一台ある。薪を積む予定だった荷台へ、ブラムが西村から送った粉袋の数を書いた木札が結ばれていた。
荷車の御者は、粉袋を積まずに馬の脚を見た。北山へ戻る道は雪が固まり、夜には橋の板が滑る。粉を急げば、荷車ごと谷へ落ちる。
「夜明け前に出る」
エマは言った。
「その前に、村へ伝えます。粥を先に、麦のまま煮る分を後に。粉を待つ人の名も書く」
ブラムは伝声石の向こうで、石臼の周りの粉を袋へ集めている。止まったからといって、残った粉を誰かの倉へ隠さない。三村へ、半袋ずつでも分けるという。
エマはユリクの名札を見た。弟を治療所へ置く選択と、三村の粉を数える選択は、別の紙にしなければならない。どちらかのために、もう一方が消えたことにしないためだ。
エマが西村へ着いたころ、雪は車輪の跡を半分埋めていた。荷車を降りると、製粉所の戸は開いたままになっている。中の熱を逃がさないため閉めるべきなのに、粉袋を運ぶ者が何度も出入りしていた。
石臼は止まっていた。上の石へ残った麦が、半分だけ粉になり、半分は溝へ噛んでいる。ブラムは木べらを差し込み、未挽きの麦を布へ掻き出していた。
「白は粉、茶は麦」
彼は言った。
壁際には白い袋が五つ、茶色の袋が六つ。白は今夜と明朝の粥へ回せる。茶は家庭の小臼がある家でしか食べられる形にならない。夜番の男が三人、粉で白くなった髪を押さえながら袋数を数えている。二人は前の夜から寝ていない。
「ミレアへ熱を送った側か」
若い女が白袋を抱えたまま言った。
エマは頷いた。謝れば袋が増えるわけではない。彼女は返事の代わりに、茶袋を一つ持ち上げた。底が湿っている。雪の上へ置けば麦まで駄目になる。
「乾いた板はどこ」
「炉の裏」
ブラムが顎で示す。エマは袋を板へ載せ、口の紐を結び直した。次に、白袋へ西村、北坂、ミレアの印を炭で付ける。どの村の分かではなく、どこまで運べるかを確かめるための印だった。
夜番の一人が座り込み、手から木札を落とした。エマは拾い、袋運びを替わる。
「数は私が読む。あなたは手を温めて」
止まった石臼の横で、エマは袋を一つずつ並べ始めた。
ブラムは夜番の三人を見た。粉を払う手が遅くなった若者、目をこすり続ける女、炉の前で膝を抱えた老人。
「若いのは帰れ。子どもを起こす前に寝ろ」
「袋が」
「袋は逃げない。眠った目で数えれば、別の家へ渡す」
ブラムは老人へ炉番を頼み、女には白袋の口を縫わせた。残る自分とエマで、配る袋を数える。
三十七軒へ白袋を割れば、一軒の鍋へ入る粉は薄い。木椀へ一杯ずつ量るたび、袋の底が見える。北坂の老人宅、川沿いの乳飲み子、西村の学校。エマはミレアの札を先に置かなかった。
「西村の子どもは何人」
女が数える。
「十一。北坂は六」
エマはその数だけ小袋を並べた。ミレアの分を要求すれば、ここで熱を止めた村の子の椀が減る。自分の村へ戻る袋は、最後に残った粉と茶の麦で決める。
「ミレアは後でいいのか」
ブラムが聞く。
「今は、西村の子どもの名を先に」
エマは言った。
「村へは、麦を持ち帰る。小臼を回せる家を聞く」
白袋は薄くなった。それでも、数えた子どもの椀から先に空にしないため、袋の口を一つずつ結んだ。
若者は帰るのをためらった。
「俺が寝たら、臼を戻す手が減る」
「その手で袋を破れば、粉の方が先に減る」
ブラムが言った直後、女の指から袋針が落ちた。粉の上へ刺さり、拾おうとした手が震える。縫い目は曲がり、白い粉が細く漏れた。
エマは針を取った。
「私が縫う」
一針目で布を引きすぎ、袋の口が寄った。ブラムが彼女の手首を止める。
「村の帳面を書く手だ。粉袋を縫う手じゃない」
「なら何を」
「運べ。袋の口を上にして、乾いた板へ置く。それなら今すぐ覚えられる」
エマは針を女へ返し、茶袋を肩へ担いだ。袋を縫える者を休ませず、縫えない自分が同じ真似をすれば、夜番の疲れを別の穴へ移すだけになる。
戸口へ、三十七軒の代表だという男が来た。空の袋を肩へ掛け、粉の匂いを吸い込んでいる。
「弟の村のために、臼を止めたのか」
エマは袋を下ろした。
「弟はユリク。治療所にいる。送流が続かなければ、今夜の補助具が止まるかもしれない」
男は目を逸らさなかった。
「こっちは三十七軒だ」
「知っています」
エマはブラムの木札を取り、白袋の数、茶袋の数、治療所の青灯、粉を待つ三十七軒を同じ面へ書いた。弟の名だけを別紙へ逃がさない。送流を受けた村と、粉を失った村を、一つの刻で聞く。
「次の半刻で、どちらかが消えたことにしない」
ブラムが札を覗き込み、止まった石臼へ手を置いた。
「夜に交代で回せば、半分は戻せるかもしれん」
「誰が」
「寝た者と替わる。熱が十分の一でも返れば、臼を一刻だけ回す。粉を全部は戻せんが、朝の粥を増やせる」
代表の男は空袋を開き、エマの札を見た。
ブラムは石臼の横棒を両手で握った。
「試すだけだ」
男二人が反対側を支え、一周だけ回す。石は重く動いたが、すぐに軸の下で氷が鳴った。熱が戻らないまま回せば、軸が割れ、明日熱を返しても臼を使えなくなる。
「止めろ」
ブラムは一周で手を離した。石臼は半端な粉を残して、また黙る。
袋の前で、三十七軒の代表が言った。
「全員へ同じだけ渡せ」
「同じ椀では炊けない家がある」
エマは返した。雪で炉が消えた家、鍋の割れた家、子どもだけの家。粉を一握りずつ渡しても、火も水もなければ朝まで食べられない。
「子どもと老人だけ先か」
「働く手を外せば、明日も麦を運べない」
代表は空袋を握り潰しかけた。エマは白袋を三つの印へ分けない。炉が残る家、鍋がある家、夜番がいる家へまとめ、そこで子どもと老人と運搬役が食べる形にする。
「全員同量にはできない。でも、炊ける家へ集めれば、粉を粉のまま捨てない」
ブラムは止まった軸を見てから頷いた。
「明朝までの策だ。臼が戻るまで、袋の行き先を炉のある家へ付けろ」
白袋は三つの共同炉へ運ばれた。学校の裏、川沿いの鍛冶屋、坂上の集会所。エマは茶袋を抱え、雪へ足を取られないよう子ども二人の後ろを歩いた。
鍛冶屋の女が、自宅用に取った小袋を炉の脇へ戻した。
「うちは昨日の粥が残ってる。隣の婆さんは一人だ」
代表の男が袋を受け取り、孤立している老人の家の印を書いた。全員へ同じだけ渡せなかった袋が、一人で炉を持たない家へ回る。エマはその印を、ミレアの分と同じ紙の余白へ写した。
製粉所へ戻ると、ブラムが空袋を広げていた。次の確認刻、粉の残り、治療所の脈、石臼の軸。書く欄は多い。
「誰が読む」
ブラムが問う。
エマは村長代理の木札を机へ置き、その下に自分の名を書いた。
「明朝の再確認は、私が聞く。ミレアの青灯も、西村の袋も」
孤立した老人の家は、川沿いの炉から坂を二つ下りた先にある。袋を渡す者が出れば、鍛冶屋の火番が一人減る。
「俺が行く」
粉袋を返した鍛冶屋の女が言った。
「炉は娘に見させる。火を足すだけならできる」
娘はまだ眠そうな目で頷いた。ブラムは火鉢の灰をならし、次の薪を置く場所だけを指で示す。大人が戻るまで、火を大きくしないこと。鍋を動かさないこと。短い約束を二つ渡す。
エマは粉袋の家印の横へ、届ける者の名と出た刻を書いた。
「明朝は、袋の残りだけを聞かない」
彼女は言った。
「誰が持ち、炉へ着き、老人が食べられたかまで聞く」
女は袋を背負い、雪道へ下りた。共同炉の火は娘の前で小さく揺れ、エマの紙には「配分」ではなく「到着確認」の欄が増えた。
粉の在庫は、明朝までだった。




