第3巻 第四話 一村分の熱
レントは、蓄魔庫の床に置かれた小さな送流器を見た。
青い灯で満ちる大きな筒の脇に、片手で運べる銅の箱がある。これを北山の流路へ繋げば、ミレア治療所の暖房紋へ熱を送れる。管理人は箱の留め具を磨きながら言った。
「半刻なら、一村分の治療所を温められる」
「半刻だけですか」
「庫の余りはある。だが北山へ出す管が細い。太くすれば、同じ枝に繋がる場所が落ちる」
エマは返事を急がなかった。病室の外で聞いていた彼女は、ユリクの名札を指で撫でている。
「治療所だけでも送って」
彼女は言った。
「村の炉は、薪で持たせる」
ミナが送流器へ手を置く。青の冷却灯は規定内。けれど、遠い先でどこが暗くなるかは、灯だけでは分からない。
レントは連環視で、送流器から北の細い線を見た。途中で三つに分かれる。一つはミレア治療所、一つは西村の製粉所、一つは雪道の中へ消える。ただ、それがどれだけの熱を奪うかは線では分からない。
「送る前に、製粉所へ伝声石を」
彼は言った。
返事は遅れた。石臼の音が大きいのだろう。ようやく出た男の声は、粉に咳き込んでいた。
『ブラムだ。いま石臼を回してる。何だ』
「ミレア治療所へ非常送流を入れます。そちらの灯が落ちる可能性があります」
少しの沈黙。
『粉は朝までに三村へ出す。止まれば、明日のパンがない』
エマが伝声石へ近づいた。
「弟が凍えてる。治療所に子どももいる」
『知ってる。だから止めろとは言わない。止まるなら、何刻か教えろ』
レントは管理人を見る。
「まず半刻。青の警報灯が上がる前に切る。製粉所の冷却灯が消えたら、こちらも止めます」
ミナが中止条件を復唱する。治療所の温度が上がらない。製粉所の冷却灯が消える。送流器の管が熱を持つ。そのどれかで、綱を戻す。
送流器の留め具が閉じた。
北へ伸びる線が明るくなる。しばらくして、ミレア治療所から伝声石が入った。
『青灯が戻った。炉の脇の子が泣いた』
同時に、西村から石臼の音が途切れた。
送流を切ったあと、蓄魔庫の青灯は一つも消えなかった。管理人はその明るさを見て、余りをもっと出せるのではと言いかけた。
「灯が残っていても、管の先が耐えるとは限りません」
ミナは送流器の銅管へ濡れ布を当てた。布が乾く速さを見て、次の半刻を決める。エマは治療所から届く声を聞きながら、製粉所へ戻す熱がいつ必要かをブラムへ尋ねた。
『日の出前だ。粉を挽くのはその時だ』
村の治療所は今、製粉所は朝。必要な熱の時刻がずれている。レントはそれを紙へ二つの線として書いた。量を奪い合う前に、時間をずらせるか確かめるために。
だが石臼の止まった音は、もう戻らなかった。
送流器を開く前に、ミナは北山の流路弁を三度確認した。大きな弁を一度に回さず、補助弁を指二本分だけ開ける。管の継ぎ目へ濡れ布を当て、乾く早さで熱の逃げを見た。
「青灯が点いても、治療所の患者が安全になった印ではありません」
彼女はレントへ言った。
「受取側の炉が温まり、術師が患者を見て、初めて次を決めます」
エマは伝声石の前に立った。村の治療所には、炉番のカナが残っている。石を繋ぐ前に、エマは受取合図を決めた。青灯が一度明るくなれば受入準備、二度目で炉の脇の布を外す。言葉が途切れても、灯と布で止められるように。
『こちら、ミレア治療所。炉の前に子ども二人、老人一人。窓を閉めました』
伝声石の向こうで、女の声がした。
レントは送流器の栓を持たなかった。管理人が弁を回し、ミナが流れを見る。エマが受取側の名を呼び、ノアが開始の刻だけを書いた。誰か一人が「送る」と決めた形にしないためだ。
銅管の中で、水音に似た低い響きが走る。青の冷却灯が規定まで上がり、赤の確認灯が短く点いた。遠隔の信号を受けただけの赤を、誰も成功とは呼ばない。
『青灯、一度。布を外す』
カナの声が返る。ミナは濡れ布を指で押さえた。
「管の温度、範囲内。次は受取側の炉です」
治療所の青灯が二度目に明るくなった。
開始から半刻を待たず、ミレア側から鐘が二度鳴った。
『治療所の補助具が動いた。老人の胸の灯が戻った』
カナの声は弾んでいた。だが次の息で低くなる。
『集会所の炉はまだ冷たい。家の方へは届いていない』
エマは伝声石を握ったまま、返事を急がなかった。治療所だけへ送ると決めた熱が、村全体の火になったように聞かせないためだ。
ラグナの送流器では、濡れ布が思ったより早く乾いた。ミナが管の目盛りへ顔を寄せる。
「流出が大きい。半分閉じます」
管理人が弁を戻す。銅管が一度鳴り、青の冷却灯の明るさが落ち着いた。閉じすぎれば治療所の補助具が止まる。開けすぎれば、同じ枝のどこかが先に冷える。
ノアは三本の流路へ、決めていた時刻の鐘を求めた。ミレア治療所は二鐘。北坂の共同井戸は一鐘。西村の製粉所は、石臼が回る間だけ三鐘。
北坂から一鐘が届く。井戸の汲み上げ具は遅くなったが、まだ動く。
ミレアから二鐘。老人の補助具は続いている。
西村からは、三鐘が来ない。
レントは伝声石へ顔を寄せた。返事の代わりに、石と石が擦れる音が一度だけ低く伸び、そこで切れた。
『ブラムだ。灯が落ちた。臼を止める』
遠い場所で、石臼の回転が止まった。
伝声石の向こうで、ブラムが石臼の下へ手を入れる音がした。止まった臼の隙間から、まだ粉になっていない麦を掬い、布袋を外している。
『白い袋は粉。茶の袋は麦だ。混ぜるな』
彼は誰かへ言いながら数えた。粉は西村に三袋、北坂へ一袋半、ミレアへ一袋。未挽きの麦は六袋あるが、朝まで臼が動かなければ鍋へ回すしかない。
『粉だけなら、明朝のパンは三十七軒分足りない』
レントは弁へ手を伸ばしかけた。送流を戻せば臼は動くかもしれない。だが伝声石のもう一方で、カナが老人の呼吸を数えている。
『補助具は動いてる。熱の子はまだ震えてる』
どちらかだけを聞いて弁を戻せない。レントは管理人へ手を上げた。
「次の判断は、半刻後。臼の袋数と、治療所の脈をもう一度聞くまで、弁はこのまま」
ブラムが粉袋の口を結び、カナが湯袋を替える音が、同じ伝声石から別々に届いた。
西村では、朝の粉を受け取りに来た母親が空袋を抱えたまま立っていた。臼が止まったと聞いても、子どもの朝粥を待つ家へ空のまま戻れない。
ブラムは未挽きの麦袋を一つ開け、家ごとに小さく分けた。
『家庭の小臼がある家へ回せ。粉にはならん。粗く挽いて、今夜は粥にしろ』
母親は麦の入った小袋を受け、空袋を折り畳んだ。明日のパンはない。それでも鍋へ入れるものを持って帰る。
ラグナで、レントは送流器の横に置いた札を裏返した。片面には「治療所送流、成功」と書かれていた。裏には、墨で「未完了」とあった。
患者の補助具は動いた。だが粉袋は足りず、家の小臼へ麦を分けている。どちらかを見ない札のまま、弁を次へ回すことはできなかった。
半刻後、ノアが砂時計を伏せた。
まずミレア治療所へ繋ぐ。カナは老人の胸の補助具を外して脈を取り、熱の子の額へ新しい布を当てていた。
『老人は眠った。子の震えも減った。送流を切れば、また下がると思う』
次に西村。ブラムの返事の後ろで、家庭用の小臼がぎいぎい鳴っている。
『三十七軒分は挽けん。小臼は一軒ぶんを半刻かけて、やっと粥にする程度だ』
送流を続ければ治療所は守れる。続けなければ石臼が戻るかもしれない。エマは伝声石へ手を伸ばした。
「ブラムさん。送流を続けさせてください」
言ってから、続けた。
「西村へ熱を返す時刻は、私が村の名で聞きます。粉が足りない家と、麦を受け取れた家を教えて。次の半刻に、治療所の脈と一緒に読み上げる」
ブラムはすぐに答えなかった。石臼の前で、未挽き麦の袋を数えているらしい。
『条件がある。西村の粉を、ミレアの子だけへ隠して回すな。足りない三十七軒を、同じ紙へ置け』
「置きます」
『次の半刻で、治療所の子が安定しているなら、十分の一でも熱を返せ』
「ミナさんと確認して、返せる量を伝えます」
エマは返事を終え、伝声石をノアへ渡した。弟を守る熱を求めながら、粉を待つ家の数も自分の声で聞く。村長代理の札は、懐ではなく机の上に置かれていた。
エマは伝声石を取り直した。
「ミレア治療所、炉番のカナさん。送流を受けた老人と熱の子を見ている」
次に西村へ向ける。
「西村、製粉所のブラムさん。粉を待つ三十七軒の代表として聞いている」
『聞いた』
ブラムの声が返る。
「次の半刻で、カナさんの側だけを残したことにしない。三十七軒の粉だけを後回しにしたことにもしない。脈と袋を、同じ刻に聞く」
『なら、袋を数えて待つ』
カナも、炉の脇から一度だけ鐘を鳴らした。
ブラムは空袋へ、次の確認刻を炭で太く書いた。
製粉所が停止した。




