第3巻 第三話 冷えた名札
エマはユリクの靴を、病室の火鉢から離した。
近づけすぎれば革が割れる。濡れた靴は、火のそばへ置けば乾くように見えるが、翌朝には底が硬くなり、雪道で足へ食い込む。彼女は靴の中へ丸めた布を詰め、少しずつ水を吸わせた。
弟は眠っている。治癒術師が冷えた指を一本ずつ包み、青い灯を弱く保っている。強くすれば目を覚ますかもしれないが、身体が驚く。エマはその説明を聞いて、村の炉も同じだったと思った。薪を一度にくべれば煙が詰まり、朝まで持たない。
ノアが名札を持ってきた。避難者用の木札だ。表にはユリク・フェルン、裏には北山共同荷場とある。
「ミレアへ直します」
「直さないで」
エマは言った。
「裏を消せば、荷場を通って来たことまで消える。ミレアも書いて。二つとも」
ノアは頷き、裏の空いた場所へ小さく書いた。ミレア村。現地申告。
エマは名札を握った。村には十九人以上いる。数をはっきり言えないのは、雪が降る前に薪を取りに谷へ出た二人が戻っていないからだ。治療所には老人が一人、熱を出した幼い子が二人。学校には火を止めたくない子どもが六人いる。
「割当はいつ戻る」
彼女が聞くと、ノアは紙を伏せた。
「王都の照会は出ています。ただ、いま届いている札では」
エマは続きを待った。
「ミレアの冬季割当は、ゼロです」
病室の青い灯が、かすかに揺れた。ユリクの靴の中の布から、水が一滴落ちる。
エマは名札の二つの地名を見た。荷場と村。どちらでもない場所として扱われたせいで、村の炉は空になった。
彼女は靴を火鉢からさらに少し遠ざけた。
ユリクが目を開けたのは、名札を枕元へ置いたあとだった。
「姉ちゃん、学校は」
声は細い。エマはすぐに答えず、湯を一口飲ませた。
「先生が火番をしてる。みんな、昼は集会所で勉強してる」
「朝は」
「朝は寒いから、遅く始める」
ユリクは安心したように目を閉じた。エマは嘘をつかなかった。学校の火がいつまで持つかは知らない。ただ、子どもたちが自分で机を寄せ、火の近くへ座る順番を作っていたことは知っている。
病室の外で、ノアが割当札を折り直していた。ゼロという数字は、村に届く薪や粉の順番まで決めてしまう。エマは名札の裏を見て、荷場の名を消さないでよかったと思った。途中の場所を消せば、戻す道も消える。
治療術師はユリクの名札を外さなかった。首から下げたままでは冷たいので、布を一枚巻き、その上から胸元へ戻す。札を失くせば、薬を替えるときに別の担架の子と取り違える。
「名札が冷たい」
エマが言うと、術師は頷いた。
「木は温めない。身体を先に戻す」
ユリクの指先へ薄い布を巻き、湯袋は直接当てない。色の戻りを見ながら、片方の手だけを温める。両方を急げば、痛みで身体が震える。エマは弟の手首を支え、術師が指を離すたび、次の指へ自分の掌を添えた。
「村には、誰が残っていますか」
ノアが病室の外から聞いた。紙を持っているが、入って来ない。
エマはすぐには数えなかった。数えれば、雪道へ出た二人の空きまで口にしなければならない。
「炉のある家に、老人を三人集めた。井戸のそばの家には、足の悪い婆さん。学校には子ども六人と先生。治療所には熱の子が二人」
声に出すと、誰が一人でいるかも続いてしまう。エマはユリクの掌を包む手へ力を入れた。
「薪は」
「あと十二日と言った。でも吹雪なら、もっと早い。炉は一つに人を集めれば持つ。でも雪道を歩けない老人は動かせない」
ノアは紙へ書く音を止めた。
「あなたは戻りたい」
レントが言った。答えを促す言い方ではない。ただ、エマが病室の扉ばかり見ていることを見ていた。
「弟を先に温めたい」
エマは言った。隠せなかった。
「ここなら青い灯がある。村にはない。置いて帰れば、ユリクは助かるかもしれない。でも村の炉が消えたら、誰が次に担架へ乗るか分からない」
術師がユリクの指先を離した。薄い桃色が、爪の根元に戻っている。
「今夜はここで眠らせます」
エマは頷いた。村へ戻る決断ではない。弟を置く決断でもない。ただ、次の湯袋を誰が替えるかを術師と確認し、村へ伝える言葉を自分で選ぶ時間を作る。
ノアが割当札を差し出した。エマは木の名札の上へ紙を置き、王都の濃い印を見た。
エマは病室を出て、治癒院の裏庭へ回った。北門から来た搬送隊の荷車が、まだ雪を落としている。馬の腹は泥と氷で白く、御者は手袋を外せずに革紐をほどいていた。
「村へ戻る者は」
エマが聞くと、御者は首を振った。
「坂へ戻る前に、担架を担いだ二人が来ない。ルクと、井戸番の娘だ」
エマは荷車の側板へ、名を一つずつ書いた。ユリク、治癒院。ルク、雪道。ミア、井戸道。村へ戻った者、戻れない者、まだ分からない者。紙へ線を引くたび、村にいる人数は変わる。
病室へ戻ると、ユリクは目を半分だけ開けていた。
「学校の火番、今夜は誰」
エマは湯袋を替えながら答えた。
「先生と、カナの父さん」
「父さん、牛舎もある」
「だから子どもは昼に集会所へ移した」
ユリクは安心せず、毛布の中で指を動かした。学校の火番は、子どもが火へ近づきすぎないよう夜ごとに二人で見ていた。村の炉が減れば、学校の火も早く消える。
ノアが割当札を持ち、治癒院の物置へ案内した。棚には非常用の小さな蓄魔具が三つある。普段なら井戸の汲み上げ具、治療所の夜灯、学校の暖房補助へ回す物だ。
「村なし扱いだと、この札では」
ノアは一つずつ指した。
「暖房補助は出ない。井戸の補助具も、非常蓄魔も配分対象外です」
エマは蓄魔具を持ち上げた。掌に収まるほど小さい。だが井戸が凍れば、村の女たちは雪を溶かすため炉の薪を使う。夜灯が消えれば、治療所で子どもの呼吸を見る者がいなくなる。
「これがないから、弟を担架へ乗せた」
彼女は言った。
「村に熱がないからじゃない。熱を残す道具まで、村の名と一緒に外された」
ノアは反論しなかった。エマは蓄魔具を棚へ戻し、木札へ書いた三つの名を胸へ入れた。
病室の机には、二枚の木札が並んでいた。
一枚はユリク・フェルン。濡れた紐で首から下げていたため、木がまだ冷たい。もう一枚は、ミレア村長代理・エマ。北門の兵が搬送名簿を作るとき渡した札だった。こちらは乾いているのに、握ると手の中へ重く沈んだ。
エマは両方を掌へ載せた。ユリクの札を先に温めれば、弟だけの行き先が決まる。村長代理の札を先に見れば、村に残る者の名が一度に浮かぶ。
治療師が湯を替えに来た。
「ユリクだけなら、今夜は守れます」
エマは顔を上げた。
「村の人は」
「ここへ全員を運べる状態ではありません。担架も、病床も、雪道も足りない」
治療師は言い切ったあと、ユリクの指先を布で包み直す。できることだけを、手を止めずに言う人だった。
「私が戻れば」
エマの声が小さくなった。
「弟は、ここへ置いていける?」
治療師はすぐ頷かなかった。薬の時刻、夜の見回り、湯袋の替えを指で数える。
「置いていけます。今夜の担当は私が持つ。ただし、朝までに村の状況が変われば、こちらも知らせを待つだけにはできません」
エマはユリクの札を枕元へ置いた。村長代理の札は懐へ入れない。机の上へ残し、弟の札と並べたままにした。
「まだ決めない」
彼女は言った。
「でも、戻る荷車が出るなら、私の席を一つ空けて」
治療師は空いた椅子を壁際へ寄せた。戻るか残るかを、今夜の熱と村からの知らせで決めるために。
夜番の前、エマはユリクの手袋を火鉢の脇へ吊った。濡れた羊毛は、強い火へ近づければ縮む。彼女は裏返し、指の先から少しずつ乾かす。
右の手袋が乾くと、ユリクの枕元へ置いた。左は懐へ入れた。
「片方だけ持っていくの」
ユリクは目を閉じたまま聞いた。
「村の火番の子に見せる。お前が暖かい場所へ来たって」
「戻ってくる?」
エマは手袋の紐を結び直した。
「戻れるように、道を見てくる」
治療師が薬の小瓶を持ち、再発したときの連絡先を尋ねた。村の名、治療所の名、伝声石の番号。
エマは答えられなかった。ミレアは現行台帳の村欄にない。村の治療所は番号を持たず、伝声石は集会所の炉が温まる夜しか繋がらない。
「北山共同荷場、と書けば」
言いかけて、首を振った。荷場へ知らせても、雪道のどこで誰が受け取るかは分からない。
ノアが空欄へ、現地申告・ミレア、集会所の炉番、と書いた。正式な連絡先ではない。それでも、次にユリクの熱が上がったとき、村の名を探す手が空白から始まらないようにするためだった。
エマは左の手袋を胸へ押さえ、右の手袋を弟の指へ掛けた。
乾いた右手の指だけが、毛布の外で少し動いた。
札の濃い印は、火鉢の明かりでも消えなかった。
紙は冷たかった。
朝は遠い。
冬季割当はゼロ。




