第3巻 第二話 山から来た毛布
ノアは、毛布の縫い目をほどかなかった。
治癒院の洗い場に置かれた毛布は、雪水と煤で重くなっている。洗濯係が湯へ入れようとしたとき、ノアは端の織印を見つけた。丸に三本の麦穂。その脇には、黒い糸で小さな数字が縫われている。
「これを洗う前に、写しを取らせてください」
洗濯係は顔をしかめた。
「血が付いたままなら、次の毛布が足りない」
「すぐ終えます」
ノアは布へ紙を当て、炭で印だけをなぞった。数字は七。毛布の裏には、粗い字で三人分の名が縫い込まれている。ユリク、エマ、ルク。避難のとき取り違えないためだろう。
搬送名簿を開く。北門外仮設台から治癒院まで、担架一、荷車二、同行七人。村名欄は空欄だった。門番は「北山共同荷場方面」と書いている。
ノアは筆を止めた。ミレアの名がないことは、第2巻の終わりで知っていた。それでも、人を運んだ紙からまで村の名が抜けていると、胸の奥が冷える。
「誰がこの名簿を書いた」
「北門の当番です」
「同行者の署名は」
名簿の端へ、小さな字があった。エマ・フェルン。震えた筆跡ではない。担架を押す手の合間に、必要な欄を埋めた字だった。
ノアは治癒院へ行った。病室の外で、エマは濡れた外套を脱がずに座っている。火鉢はあるのに、彼女はその近くへ寄らない。ユリクの毛布を乾かすため、火を取っておきたいのだという。
「搬送名簿へ、村の名を書いていいですか」
「ミレアって書いて、荷を止められない?」
エマは先に聞いた。
ノアは即答しなかった。台帳にない名を足せば、門の役人は確認を求めるかもしれない。けれど空欄のままなら、次の毛布も、次の薬も、どこへ戻すかがない。
「止めないために書きます。現地申告、と添えます」
エマは少し考え、名簿の余白へ自分で書いた。
ミレア村。村長代理、エマ・フェルン。
ノアは名簿を二枚にした。一枚は治癒院の受入用、もう一枚は北門へ戻す。エマの署名を写す前に、彼女へ読み上げた。担架の少年、荷車の老人、付き添い、御者。七人の名を一つずつ。
「ルクは途中で薪を取りに戻った」
エマが言う。
「帰ったのか、戻れないのか」
「分からない。だから、村にいる人数へは入れないで」
ノアは線を引き、所在未確認と書いた。空欄へ勝手に数字を置かない。村が台帳から消えたとき、誰かが数を急いで整えたのかもしれないと思った。
洗濯係は待っていた毛布を湯へ沈めた。赤い水が広がり、織印はすぐ見えなくなる。ノアは写しを布袋へしまい、治癒院の棚へ置いた。次の人が毛布だけを見て、どこから来たか失くさないように。
ノアは北門へ戻った。雪道から来た担架の跡は、石畳の上で途切れている。だが門の外には、車輪が滑らないよう麻布を巻いた荷車がまだ一台残っていた。御者は馬の鼻先へ温い水を差し出し、飲ませながら待っている。
「この車は、どこから」
「北坂の分かれ道。ミレアへ入る坂は荷車が上がらん。村の男たちが担架を下ろして、ここまで運んだ」
御者は車輪の軸を指した。白い粉が凍りついている。塩ではない。雪の下の石灰道を滑らせないため、村人が灰を撒いた跡だという。
ノアは搬送名簿の経路欄へ、北山共同荷場とだけ書かれた線を見た。荷場から北坂、徒歩担架、仮設台。紙にない区間ほど、身体を使った者が多い。
北門の兵が、担架を引いた男の名前を思い出した。ルク。だが署名はない。エマは「ルクは戻ったか分からない」と言った。ノアは名を搬送済みに入れず、担架搬送協力・所在確認中と別紙へ置く。
雪道の人を、荷車の到着だけで数えないためだった。
仮設台の箱には、第2巻で作った到着板が残っている。人の名、出発門、到着門、本人確認。ノアはその横へ、徒歩区間と引受人の欄を足した。門を通らず来た者も、どこで誰へ渡されたか失くさないように。
エマの署名は、病室の名簿にだけ残る。ノアはその字を写し、北門の兵へ見せた。次に同じ村から来た者がいれば、村の名を空欄へ戻さず、現地申告として受けるよう頼む。
兵は毛布の織印を見て、首を縦に振った。
仮設台の兵は、北山から来た担架を受け取るたび、手袋の甲へ白墨で印を付けていた。紙を開く余裕がないとき、何床目かを忘れないためだ。
「七床目は誰が引き受けた」
ノアが尋ねると、兵は白墨の跡を数えた。
「治癒院の使い。だが坂の途中では、村の者と御者が替わった」
北山の坂は担架を二人で持てない幅になる。前を担ぐ者が雪へ沈めば、後ろの者が竿を肩へ回す。御者は馬を置き、半刻だけ担架を担いだという。引受人欄に一人の名だけを書けば、その途中で誰が身体を渡したかが消える。
ノアは欄を三つに分けた。山道の引渡し、仮設台の受入、治癒院の受入。兵と御者へ、覚えている名を一つずつ言わせる。ルク、オルダ、治癒院の使い。確かでない名は、聞いた者の欄へ置く。
次に現行地名の索引を開く。北山共同荷場はある。ミレアはない。荷場から枝分かれする村の欄も、冬季避難先の欄も空白だった。ノアは第2巻の割当札を横へ置いた。旧番号七、休止施設、冬季供給ゼロ。紙の上では、人を運んだ道も、熱を送る先も、同じ空白へ落ちている。
エマは病室から来て、名簿の余白へ筆を取った。
「この人は途中で担架を替わった。名はルク。帰ったかは分からない」
彼女は一度筆を止め、村の名を書いた。ノアはその字を、現地申告として別紙にも写す。検索に出ない名を、見つからないからと書かないままにしないために。
ノアは北門の火鉢の脇へ、三人を順に座らせた。担架を最初に持った村の男、途中で竿を替わった御者、仮設台で受け取った兵。紙を見せず、同じ問いをした。
「ユリクの担架を、誰から受け取った」
村の男は、坂の曲がり角でルクへ渡したと言う。御者は、ルクから受けたが、少年の姉が前の竿へ手を添えていたと言う。兵は、御者と女の二人から受け取ったと言う。三つの声は少しずつ違う。それでも、担架が雪道で一人の名だけに預けられていなかったことは同じだった。
兵が濡れた紙を出した。雪で半分の墨が滲み、引受人の最後の字が読めない。
「エマ、と書けば合う」
御者が言った。
「書きません」
ノアは紙を火へ近づけず、乾いた板へ挟んだ。合いそうな名を補えば、次に違う担架まで同じ人が引き受けたことになる。エマへ直接聞き、本人が見た区間だけを書き直す。
エマは病室の戸口で、ユリクの寝息を聞いた。署名を頼まれても、弟の名だけならすぐ書ける。だが村に残る十九人のために書けば、次の荷の順番も、自分が引き受けることになる。
「私は村長じゃない」
「代理として名簿を守ってきた、と聞きました」
ノアは答えた。
エマはしばらく筆を持たなかった。それから、ユリクの名の下ではなく、ミレア村・現地申告の横へ署名した。弟一人を運んだ証ではない。雪の向こうに残る十九人の声を、空欄へ戻さないための署名だった。
署名を乾かしている間に、書記が北門の伝送箱を抱えて来た。
「王都の契約担当へ、搬送名簿を送ります」
箱の上には、濡れた原本が載っていた。雪で滲んだ引受人欄、エマがいま書いた村名、ルクの所在確認中という余白まで、すべてが一枚に残っている。
「待ってください」
ノアは箱を押さえた。
「王都へ出すのは控えです。原本は北門に残す」
「契約担当が原本を求めたら」
「現地救助が続いている紙を、照会のために先に手放しません」
書記は不服そうに見えた。王都の印があれば、紙は早く動く。だが原本を送れば、次に同じ村から担架が来たとき、誰がどこで引き受けたかを北門で確かめられない。
ノアは机を二つ使った。一方へ原本を置き、毛布の織印の写しと搬送者の聞き取りを挟む。もう一方へ薄い控え紙を置き、契約担当へ必要な番号だけを写す。旧番号七、現地申告、冬季供給照会。村の人の名は、本人が出してよいと決めた分だけにする。
エマは控え紙の端を見た。
「ミレア村、と書いて」
ノアが筆を渡す。エマは自分の字で、村の呼び名と「現在十九人、雪道に二人未確認」と書いた。確定人数に見せないため、数字の横へ小さく「村の帳面による」と添える。
「これも王都へ?」
「控えには載せます。原本はここに残します」
書記は二枚を取り違えないよう、控えの角へ青い糸を結んだ。原本には北門の木印を押す。紙の行き先を分ける手が、村の名をもう一度空欄に戻さない。
王都便が出たあと、ノアは原本を箱へ戻した。次の担架が来れば、この紙を開く。契約のための控えより先に、雪道から来る人を受け取るために。
北門の木印は、濡れた紙の端へ深く残った。
雪を含んだ風が、伝送箱の蓋を一度鳴らした。
その字は、乾くまで誰も触れなかった。
エマ・フェルンの署名だった。




