第3巻 第一話 満杯の青灯
ラグナの蓄魔庫は、青い灯で満ちていた。
石壁へ埋め込まれた十二の冷却灯が、同じ明るさで並んでいる。床下の蓄魔筒から上がる低い唸りは途切れず、入口の板には「九割八分」と白墨で書かれていた。余れば、明日には王都の買い付け商が来る。町の者はそう話していた。
その前を、担架が一つ通った。
「毛布を外すな」
担架の前を歩く治癒院の使いが叫ぶ。毛布の隙間から見えた顔は、少年のものだった。唇が紫に近く、睫毛に溶けかけた雪が残っている。後ろには同じ色の毛布を抱えた女が二人、荷車へしがみついていた。
レントは蓄魔庫の入口で立ち止まった。庫の中は暖かい。外から来た者の吐く息だけが、白く長かった。
「どこからですか」
「北山。ミレアの道」
担架の女が答えた。答えながら、少年の毛布を押さえ直す。毛布の下に手を入れ、指先がまだ動くか確かめている。
「名前は」
「ユリク・フェルン。十四。姉が一緒に来てる」
姉は荷車の後ろにいた。雪で濡れた外套の下に、村の帳面を抱えている。だが彼女は自己紹介より先に、担架の車輪が石畳の割れ目で跳ねないよう、先へ回って木片を抜いた。
治癒院の馬車が待つ間、レントは蓄魔庫の管理人へ聞いた。
「余っている分を、治癒院へ回せませんか」
「庫からなら回せる。だが、どこへ流すかの札がない」
管理人は青い灯を見上げた。
「ここは王都契約の保管庫だ。満ちた分も、勝手に出せば次の検査で不足にされる」
石筒は唸っている。ユリクの手は毛布の中で冷えている。レントは二つを見比べたが、線は答えを出さない。ただ、庫の出口から王都向けの封印札へ、細い光が伸びているのが見えた。
治癒院の使いが、少年の足先へ湯袋を入れた。
「熱はありますか」
「湯なら。術式の熱は、病室でしか使えない」
女は言った。彼女の指には、薪を割った者のような裂け目がある。村で火を守り、最後に弟を運んできたのだろう。
馬車が動く。レントは荷車の側板に縫い付けられた毛布の端を見た。丸の中に三本の麦穂。第2巻で、北山共同荷場の荷に見た印だった。
レントは管理人に頼み、蓄魔庫の出口札を一枚ずつ見せてもらった。王都工房、南の治癒院、冬季予備。どの札にも数字はあるが、北山の村名はない。管理人は札を指で弾いた。
「余りはある。だが余りの行き先まで、ここでは決められない」
その間にも、担架の車輪は遠ざかる。レントは庫の床へ落ちた雪を靴先で避け、次の荷車が来る場所を空けた。余った光のそばで、人を寝かせるわけにはいかなかった。
門前から、もう一台の荷車が入る。毛布にくるまれた老婆と、凍った水瓶。御者は瓶を床へ置くなと言った。溶けた水がまた凍れば、村へ戻るときに使えない。
蓄魔庫は満ちている。けれど熱を届ける箱も、汲み上げる水も、村へ戻す車も、同じ場所にはなかった。
担架が治癒院へ入るまで、レントは蓄魔庫の前で荷車を一台ずつ止めた。庫へ入る車と病院へ行く車を同じ石畳へ重ねれば、冷えた者の足元へ蓄魔筒の熱い排気が当たる。管理人は不満そうにしたが、雪で濡れた毛布を熱風へ晒せば、表だけ乾いて内側の冷えが残る。
治癒院の使いは、担架の下へ板を差し込み、車輪を上げた。毛布は剥がさない。代わりに足元だけを開け、湯袋を二つ入れる。少年の姉は湯袋の栓を自分で確かめ、漏れていないことを見てから弟の頬へ手を当てた。
「熱いなら言って」
ユリクは返事をしない。唇が動くまで待ち、薬師が脈を取る。レントは毛布の端へ手を出さず、運ぶ者の足元だけを見た。担架を急がせれば、階段の角で少年の身体が揺れる。
庫の管理人は、出口の小さな弁を一つ閉めた。王都向けの筒を止めたわけではない。庫内へ流れる余熱を、入口の石床から外へ逃がすためだ。青い灯は満ちたまま、足元の霜だけが少しずつ溶ける。
「この熱を村へ」
姉が言いかけ、言葉を切った。誰へ頼むか分からない声だった。
レントは出口札の並びをもう一度見た。どの札にも、暖房と治療の言葉はない。数字と契約番号だけがある。余った量を見ても、いま凍えている人へ届く道がない。
毛布を運ぶ女の一人が、洗濯籠へ予備の布を入れた。濡れた織物を捨てず、村へ返せるよう洗うのだという。籠の底で、丸に三本の麦穂が水を吸って濃くなった。
そのとき北門の鐘が、警報ではない短い間隔で七度鳴った。
担架一、荷車二という最初の知らせのあと、山から下ろされた者がさらに来た。寝台にできる戸板を積んだ橇が三台。毛布に包まれた老人、咳をする女、足先を紐で吊った子ども。治癒院の使いは入口で数え、受け入れの順を変えた。
「呼んで返事がある者は荷車へ。返事がない者、指先が白い者を担架へ」
七床分の毛布が石畳へ並ぶ。誰かを後ろへ回すための順番ではない。担架の数が足りないから、歩ける者の息を使って、息の浅い者の場所を空ける順番だった。エマは弟の横を離れず、別の子の毛布の端を引き上げる。レントは、呼吸の白さが短い者を見て、使いへ指で示した。
ミナは蓄魔庫の入口で、青灯を一つずつ確かめていた。
「満杯は、庫の中身です。北山へ流れている量ではありません」
彼女は流入の細管へ耳を当て、次に王都へ出る太い管の留め具へ触れた。流入は規定内、流出も止まっていない。余熱だけが入口の石床へ漏れている。青灯が明るくても、出口の先で暖房紋が働くとは限らない。
レントは割当札を見た。ミレア、ゼロ。目の前の庫は九割八分。二つの数字は並んでいるが、まだ一本の原因ではない。村へ行く管が細いのか、札が出口を閉じているのか、途中で別の場所へ逃げているのか。担架を前に、推測で弁を回すわけにはいかなかった。
「余熱を使える範囲だけ、ここへ」
ミナが言う。管理人は庫の壁にある補助弁を半分だけ開いた。青灯は変わらず、石床の冷えだけが和らぐ。担架の下へ乾いた板を敷き、毛布の底が濡れないようにする。熱を村へ送る前に、いま来た者の背中を石から離す。
洗濯係が、最後の毛布を受け取った。雪を払い、裏返した瞬間、縫い目の中から丸に三本の麦穂が現れる。
「これ、北山の荷の印じゃないか」
リオが言った。第2巻で返し縄と一緒に見た印を、彼は覚えていた。
エマは毛布を取り戻そうとせず、頷いた。
「ミレアで織った。村の名がなくても、毛布は戻る場所を知ってる」
レントは青い灯を見上げず、濡れた織印を見た。
管理人が、蓄魔庫の横壁にある細い送流口を指した。
「治癒院へ直接引くなら、ここだ。庫の余りを一刻だけ回せる」
銅の栓には、普段は触れないことを示す白い封がある。ミナは封の端を確かめ、管理人が止める綱を持ち、レントは担架の列から目を離さなかった。
「開ける前に、治癒院側の受入を」
伝声石へ呼びかける。病室ではなく、廊下の補助紋へ熱を入れる。返事が来る前に、管理人が半回しだけ栓を動かした。
金属が鳴った。
青灯は変わらない。けれど送流口の内側で、赤い小さな留め具が跳ねた。安全弁が閉じ、栓はそれ以上回らない。
「庫が満ちていても、受ける先の流れが空いていない」
ミナは栓へ手を出さなかった。無理に押せば、治癒院でなく庫の足元へ熱が逃げる。管理人は綱を戻し、白い封を破らずに栓を元へ戻した。
その間に、担架の一つで女が毛布を開こうとしていた。中の老婆は呼びかけに答えない。濡れた布を替えなければならない。だが全部を剥がせば、冷えた身体へ風が入る。
「顔だけ」
エマが言った。弟のそばから、湯袋を一つ持って来る。
「首と胸は閉じたまま。手が濡れているなら、私の布を使って」
彼女は先にユリクの毛布の隙間へ手を入れ、固くなった指を一本ずつ包んだ。握らせない。指を曲げれば痛むから、掌を自分の両手で挟み、湯袋の温かさを布越しに渡す。
「ここにいる。急がなくていい」
ユリクのまぶたがわずかに動く。エマはそれを見てから、老婆の担架へ行った。毛布の端だけを開き、洗濯係の乾いた布を滑らせる。白い指先が見えたが、風へ晒す時間は短い。
洗濯係が毛布を受け取った時、裏の縫い目から丸い印が覗いた。エマは弟の指を包んでいた手を離さず、その印を見た。
「それは、ミレアの織印です」
洗濯係は印の周りだけ、湯へ沈めずに残した。次の毛布へ替える手を急がせないため、織印の写しを取ってから洗う。ノアが呼ばれ、濡れた糸の形を紙へなぞる。
レントは閉じた安全弁を振り返った。熱は目の前にあり、担架は七床ある。それでも、押し開けられない弁と、剥がしてはいけない毛布が、同じ朝に残った。
青灯の下、朝の雪水が濡れた糸から滴る。それは洗っても消えないように縫われた、ミレアの織印だった。




