第2巻 第四十話 消された地名
ノアは、ミレアの名を対応表の中央へ書いた。
左には戦時台帳の名、ミレア集会所。右には門番台帳の記載、廃番七号近傍・季節小屋三戸。さらに右には、現在の住民申告、ミレア村・十九名以上。どれが正しいかを、一本の線で決めることはできない。
机の向こうには、三枚の札が現物のまま置かれていた。王都中央門で使われた現行札。青麦印の古い荷札。ユナが集会所で書いた到着名簿。紙の色も、穴の位置も違う。どれか一枚へ書き写して原本を捨てれば、また違いが見えなくなる。
ノアは対応表へ四つの欄を作った。
人が現在呼ぶ名。門役が読む名。戦時経路に残る名。門番号。
ミレアの行は、その四つが一致しない。だから「新名へ統一」とは書かず、互いを参照する矢印を引いた。門役が現行札を読んだときに旧番号が応答しないこと、住民がミレアと名乗ったときに未登録者として退けないこと。その二つを、同じ表で確かめる。
「季節小屋ではない」
サナが門番台帳の欄を指した。
「冬も住む。窯も、井戸もある」
ノアは「誤記」と決めつけず、住民申告・通年居住、と追記した。現地確認の日には窯、井戸、家屋、冬の人数を一緒に見る。紙から消された村を、会議室の想像だけで書き戻さないためだ。
「改名ではありません」
彼は、集まった者へ言った。
「台帳ごとに、別のものとして扱われていました。現地を確認せず、どれかを消した結果です」
会館の窓から、再開した東門の白い光が見える。人送は一便ずつ、荷送は薬と治療具だけ。戻った生活は、以前の速さではない。それでも、最初の王都出発名簿十二人は、十一人とユナの所在が揃った。ミレアへ別々に流れ着いた十二人も、全員が戻った。
ユナは案内所の机で、到着者の名を新しい帳面へ写している。リオは外で、陸送へ回る荷の縄を締める。テオは門役長の隣に立ち、到着確認の声を待つ。誰も、今回のことを一人の失敗として片づけていない。
テオの前には、復唱慣習の聞き取りが置かれていた。誰から教わったか。どの札で使ったか。止めたときに門はどう応じたか。責任欄へ彼一人の名を書くのではなく、師匠から見習いへ口頭で伝わり、門役長も長年止めなかった経緯を分けてある。
「僕が読んだ便は、僕の欄へ書いてください」
テオは言った。
「消しません」
ノアは答えた。
「ただし、あなたの声だけを原因欄へ置きません。旧接合、青麦札、三台帳の不一致、復唱慣習。それぞれを確認した人と、次に止める人を書きます」
ガルドは外した金具の保管札へ署名した。ミナは旧経路の残留値を七日間測る欄を引き受ける。門役長は唱名板から旧番号を外し、再び取り付ける条件を空欄のまま封じた。原因を分けることは責任を薄めるためではない。直す場所ごとに、手を持つ者を残すためだ。
ノアは紙束の最後をめくった。戦時経路を休止のまま残した命令、切り取られた署名欄、地下七番へ届いた予定外の一括再開命令。王都へ照会する項目は多い。だが今日は、ここで確定できることを確定する。
「旧新地名対応表は、仮版として公開します。修正は、ミレアの住民と門役と地図係が一緒に行う。廃番七号は、再開候補から外す。現地確認と、接合の取り替えが終わるまでです」
セラが頷く。
「人送、荷送、経路ごとの停止基準も残す。警報鐘が鳴ったら全員が走るのではなく、誰がどこを止めるかを門前に出す」
「組合は、陸送の継続荷を毎朝出す」
ディーンが言う。
「門が一便増えたからといって、すぐ荷車を解散させない。次の停止席で、遅れと損失を見て決める」
ノアは補償の紙を開いた。治癒院が代替薬へ使った費用。酸くなる前に乳酪へ変え、値が下がった羊乳。種まきが一日ずれた畑。無料で旅客を泊めた宿。門前待機になった日雇い。橋の迂回で失った湯袋と、担架用に切った木。
「全部、同じ損失ではありません」
ディーンが言う。
「売れなかった額。余分に払った額。働いたのに受け取れない日当。分けて出す」
セラは守備隊の仮払い枠を示した。救助と宿泊はそこから先に支払う。荷の値下がりと陸送の追加賃は組合が半額を払い、残りは王都へ請求する。責任の照会が終わるまで、住民や日雇いへ待てとは言わない。
羊乳の女が受取札へ指印を押した。
「乳酪は売れた。乳の値全部はいらない」
「差額と、火床代を出す」
会計がその場で銅貨を数える。女は袋を振って音を確かめ、次の朝も乳の半分を陸送へ回すと書いた。補償は帳簿の数字で閉じず、明日また桶を返して乳を搾れる形になった。
若い荷役には、停止中の半日当が渡る。宿主には今夜までの部屋代と薪代。農夫の種はまだ収穫になっていないため、損失を決め打ちせず、七日後の芽出しを見て再確認する欄を残した。
オルダは対応表を読み、ミレアの名の横へ指を置いた。
「薪と小麦も、そこに書け」
「書きます」
ノアは新しい欄を作った。住民数、冬季の必要、現地で受け取れる者。紙は増える。しかし今度の紙は、誰かを無いことにするためのものではない。
次回停止席の日付は、ディーンが七日後の朝鐘二つと書いた。セラは守備隊、薬師は患者、宿主は滞在者、荷役親方は日当、オルダはミレアの必要を持ち寄る。欠席者の欄も作り、来られない者へは伝声石で理由と損失を聞く。
「停止席の進行は、どちらが持つ」
ノアが尋ねる。
「停止理由は守備隊。停止損失は組合」
ディーンが答えた。
「再開条件は門役とミナ。住民の条件は、住民が言う」
セラが続ける。誰か一人が全項目を説明し、最後に全員へ同意を求める席にはしない。違う判断が並んだときも、署名欄を分けて残す。
ノアは定例席の紙を読み上げ、オルダにも回した。
「村へ持ち帰る。サナたちと、誰が出るか決める」
オルダは署名せず、受領の印だけを置いた。参加者までラグナ側で決めない。その余白を残して、今日の席は閉じた。
ミナが、王都から届いた割当札を持ってきた。
「冬季魔力割当の照会結果です」
紙は薄く、王都の印は濃い。ミレアの欄を探すまでもない。旧番号七に紐づく地域は、休止施設扱い。そのため暖房補助、浄水補助、門前の非常蓄魔、すべて割当対象外とされている。
供給量の欄には、ゼロとあった。
ノアは、すぐに読めなかった。
オルダが紙を引き寄せる。数字を読めないのではない。ゼロの横へ押された確定印を、爪で擦っても消えないことを見ていた。
「非常蓄魔がないと、井戸は」
「凍ったあと、汲み上げ具を動かせません」
ミナが答えた。
「炉の薪で雪を溶かすことはできる。けれど十九人分を毎日なら、十二日より早く薪が尽きます」
サナはパン種の袋を胸へ寄せた。
「割当を戻すまで、村へ帰るなってこと?」
「帰るかどうかを、こちらで決めません」
ノアは割当札の受領時刻を書いた。
「今日決めた陸送へ、薪と小麦を追加します。何日つなげるかを出して、その期限と一緒に王都へ再照会する」
ディーンは荷車の余りを数えた。薬と冬種を運ぶ二台から、一台をミレア方面へ回せるのは三日後。セラは板橋の仮修理を明朝から始めると答える。門を無理に開けて荷を送り込まず、歩いて確かめた道から必要を運ぶ。
「十二日分全部は載らない」
「最初の三日分を載せる。次の停止席で、残りの車と王都の返事を並べる」
オルダは、定例席の紙へ初めて自分の名を書いた。村へ戻ってサナたちと決めるという欄は残したまま、冬の期限を伝える者として署名した。
ユナの滞在名簿には、ミレアで火を守った人の役目も残っていた。サナはパン種を抱え、オルダは川の道を案内し、ルクは薪を割った。冬が来れば、村の火はさらに要る。それなのに王都の紙では、そこに人が住んでいないことになっている。
「誤着の後始末へ埋めてはいけません」
レントが静かに言った。
ノアは頷く。
「はい。最初の出発名簿十二人と、ミレアで別に確認した旅客十二人は全員の所在を確かめ、負傷者を治療へつなぎました。ユナは両方の名簿で照合しています。門は段階再開、荷は陸送を残します」
「けれど、冬の割当がゼロなら、火が消える日まで十二日です」
ノアが言うと、書記が王都への再照会文を二通作った。一通は通常便、もう一通は守備隊の早馬へ渡す。本文には復旧を求める言葉だけでなく、住民十九人以上、乾燥薪十二日未満、井戸凍結時の汲み上げ不能、と現地から聞いた期限を置いた。
早馬の騎手が封書を胸へ入れ、会館を出る。蹄の音は、再開した門の低い唸りとは別の速さで遠ざかった。
会館の外で、警報鐘ではない朝鐘が鳴った。
窓の向こう、東門の石輪が一便を受け入れる。赤の確認灯が点く。その隣で、青の冷却灯をミナが確かめている。
ノアはミレアの名の下へ、太く書いた。
冬季魔力割当 ゼロ。
紙の余白は、まだ白かった。




