第2巻 第三十六話 名前を呼ぶ門番
テオは、札に書かれた短い言葉を何度も目でなぞった。
北門外仮設台。救出用片方向接続。旧番号七は、無効化済み。
そこにはミレアの名がない。師匠なら、足りないと言っただろう。門を通す相手には、行き先を耳でも分からせる。客は札を失くし、字を読めず、怖くなれば呼び鈴の綱を何度も引く。だから門番は最後に、行き先を小さく呼ぶ。そうして十七年、師匠は一度も迷わせなかった。
台の横には、ノアが作った三枚の札が伏せてある。
現行の受入名――ラグナ北門外仮設台。
向こうの人が名乗る旧地名――ミレア。これは人へ問い返すための札で、術式台へ載せない。
門番号――旧番号七。無効化を確認するためだけに読み、接続先としては唱えない。
昨日までなら、その三つを一息でつないだ。地名と番号が同じ場所を指していると信じ、客にも門にも同じ声を聞かせた。今日は、一枚読むたびに札を裏返す。どの言葉を誰へ渡したか、自分の舌だけに覚えさせないためだ。
テオは空の椅子を旅客に見立てた。
「到着先は、ラグナ北門外仮設台です」
現行名の札を伏せる。
「あなたが出る場所を、ミレアと呼んでいますか」
旧名は、返事をする人がいないのでそこで止める。決して石輪へ向けない。
「旧番号七は無効。救出用の接続に、番号七を指定しません」
番号の札を伏せた。三枚目まで終えても、いつもの最後の一音を足さない。喉に残った息を、声ではなく鼻から吐いた。
自分は、その真似をした。
古い名前の最後の一音まで、師匠のように。
その音が、廃番七号を現役として呼んだかもしれない。もちろん、声だけが原因ではない。青麦印も、古い接合も、削られた台帳もある。それでも、あのとき自分が黙っていれば、ユナは消えなかったかもしれないと思うと、手のひらが冷たくなった。
「札は、読めますか」
ミナが隣で聞いた。
「読めます」
「声に出して」
テオは息を吸った。
「北門外仮設台。救出用片方向接続。旧番号七、無効化済み」
「もう一度」
同じだった。余計な地名は、喉の奥まで来ても出さない。
「門は一度だけ開きます」
ミナは石輪の縁に白い布を掛けた。
「一度目で向こうの人が出られなければ、徒歩班の道を使う。二度目を開くかは、今日決めません」
「一度で、全員を出せなかったら」
「向こうで順番を決めた人を、こちらは受け取る」
「名前を呼ばなくていいんですか」
ミナは少し考えた。
「呼ぶ名前を、門へ渡す必要はありません。到着したあとに、本人へ聞きます」
それが怖かった。門番の仕事の半分を手放すように思えた。札の名、客の顔、声、荷の縄。全部を結びつけて、違っていないと確かめるのが仕事だと思ってきた。
しかし、今までの確かめ方には、勝手に足した言葉が混じっていた。
石輪の外では、レントが門役長と話している。門役長はテオへ近づき、いつもの厳しい目で札を見た。
「怖いか」
「はい」
「なら、怖いまま読め。うまく読むな」
「師匠なら」
「師匠は、お前に真似をしろと教えたか」
答えられなかった。教わったのは、客が迷わないように見ろということだった。小声の復唱は、そのための癖だった。癖だけを、守るためのものと取り違えた。
「今日は、向こうの客が迷わず出られる声を読め」
門役長はそう言って、綱をテオへ渡した。
綱の柄には、細い麻糸が一巻きだけ結ばれていた。一度引けば切れる。二度目を引こうとすれば、指へ残るのは切れ端だけだ。
「お前を疑って縛る印じゃない」
門役長が言う。
「俺が二度目を命じそうになった時も、その切れ端を見せろ」
テオは麻糸の結び目を親指で確かめた。止まる責任は、見習いだけに置かれていない。
青の冷却灯が規定の明るさへ戻る。赤の確認灯は消えている。遠隔の命令ではない。ミナが自ら石輪の術式を繋ぎ、門役長が手元の刻印を押し、ガルドが外した接合に白い残りがないことを確かめた。三人がそれぞれ頷く。
「開始」
ミナの声で、テオは札を台へ置いた。
「現行受入名、ラグナ北門外仮設台」
石輪が低く鳴る。
「救出用片方向接続」
白い光が、輪の内側から薄く立ち上がった。
「旧地名ミレアは、門へ指定しない」
石輪の音は変わらない。名前を足さなくても、光は消えなかった。
「門番号七、無効化済み。接続指定なし」
綱を一度引く。
柄の麻糸が、乾いた音を立てて切れた。
門が開いた。
向こうは、古い集会所だった。壁の隙間へ毛布が詰められ、炉の火が赤い。石輪の前にユナが立っている。赤い帽子は煤で黒く、青い案内紐を腰へ巻いていた。彼女の片手には紙束、もう一方には小さな子の手がある。
テオは最初に地名を呼びそうになり、唇を閉じた。向こうがミレアなら、そこに立つ人が答える。
「テオさん」
名前を呼ばれて、彼は喉が詰まった。
「聞こえる?」
「聞こえます」
「門の外、雪?」
「まだです。寒いですけど、来られます」
「こっちはミレア。集会所の門。届いてる?」
「届いています。こちらはラグナ北門外の仮設台です」
人が名乗った旧地名と、こちらの現行受入名を別々に返す。石輪はどちらの声にも脈打たず、一定の低い音を保っている。ミナが計測板へ二つの時刻を書いた。
「門番号は読まなくていい?」
「七番を接続先にはしません。この門は救出用です」
「分かった。じゃあ、こっちで順に出す」
ユナの返事は、門役の指示を待つ声ではなかった。彼女は紙束を開き、炉のそばにいる人へ片手を上げた。
ユナは後ろを振り返った。足を折った男、熱のある女、幼い子供、見知らぬ村人。彼女が紙へ指を当てる。
「門で出すなら、最初はこの人。次は子供。でも、歩ける人はもう道へ出してる」
「分かりました」
テオは、門へ余計な名を呼ばなかった。代わりに、こちらの兵へ言う。
「担架、二つ。受け入れ台へ。名前は到着してから、札と照らす」
兵が空の担架を石輪の手前へ寄せる。負傷者を乗せる前に、戸板の先端だけを光へ近づけ、荷重を掛けずに幅と揺れを確かめるためだ。
戸板の影が輪の内側へ触れた瞬間、青の警報灯が一度消え、赤の警報灯が短く点いた。門枠の下で、乾いた石を擦る音がする。
「下げて」
テオは綱から手を離さず、兵へ叫んだ。担架が白線の外へ戻る。赤の警報灯は消えたが、青の冷却灯は明るさを取り戻さない。
「人を通す前の中止条件です」
ミナが計測板へ時刻を書く。
「通信は届いた。でも、担架の重さを受ける幅が保てません」
向こう側でユナが、足を折った男の肩へ毛布を掛け直した。門が開いたからといって、通らなければならないわけではない。先に四人を押し出した細い隙間とは違い、今度は人を載せる前に止める声が届いている。
「ユナさん。徒歩班の目印は見えますか」
テオが尋ねる。
「青と白の布。川の音が大きいところで、二本並んでる」
「そこから左へ上がらないでください。セラさんの班が下から来ます」
ユナは後ろへ同じ言葉を伝えた。オルダが川の曲がりを指し、ルクが負傷者を運ぶ戸板の縄を締め直す。門の光越しでも、誰が歩けて、誰を運ぶかが見えた。
「先に出した四人は、着いた?」
「着いています。治癒院へ運びました。ゲイルさん、マルタさん、エドさん、ルウさん。四人とも名前を確認しました」
ユナは紙の四行へ指を置き、頷いた。
「じゃあ、残りは私を入れて九人。ここの三人と一緒に歩く。負傷者は戸板、子供は真ん中」
「到着側で、九人と三人を別に数えます」
名前を一つの数字へ混ぜず、旅客と案内係、村から歩く住民を分ける。テオは復唱する代わりに、ノアが掲げた二枚の受入札をユナへ見せた。
「閉じても、道で会える?」
「会えます。徒歩班はもう川へ入っています」
「名前、ちゃんと持っていく。門を閉じていいよ」
テオの胸が縮んだ。閉じれば、彼女の姿はまた見えなくなる。
救助される側から、開門を終える返事が来た。テオはミナを見る。ミナは計測板の赤い時刻を指し、それから頷いた。
人は一人も通さないまま、石輪は閉じた。
テオの手の中で、綱がまだ揺れていた。もう一度引けば、開くかもしれない。向こうにはユナがいる。けれど彼は引かなかった。
切れた麻糸が、汗ばんだ掌へ貼りついている。門役長も綱へ手を伸ばさなかった。テオは切れ端を台の上へ置き、開門一回、と時刻の横へ貼った。自分が我慢した証ではなく、次に来た者が回数を知らず引かないための印だ。
仮設台では、先に出た母子の名が別々に読み上げられた。返事が二つ聞こえるまで、テオは閉じた石輪から目を逸らさなかった。
青の警報灯が消え、石輪の縁に白の残留灯が灯る。ミナがすぐに言った。
「接合を外します。二度目は開けません」
テオは、閉じた門へ小さく頭を下げた。
今度は、何も復唱しなかった。




