第2巻 第三十五話 門のない道
セラは崩れた橋の手前で、隊を止めた。
谷を渡る石橋は中央から落ち、白い水が下で泡立っている。板を渡せば一人ずつは行けるかもしれない。だが担架を持ったままでは無理だ。橋脚の片側には、昨夜の雨で土が崩れ、足を置ける場所も細い。
先頭の兵が腹ばいになり、橋面へ槍の柄を伸ばした。残った石へ先が触れるたび、細かな欠片が谷へ落ちる。水音に混じって、遅れて底を打つ音がした。向こう岸までは槍二本分もない。近いからこそ、飛び越せるように見える。
「縄を渡せば」
「帰りは負傷者を抱える」
セラは兵の言葉を切った。行きに渡れた道が、帰りにも使えるとは限らない。橋の向こうへ着くだけなら板で足りても、折れた脚を固定した人を同じ幅へ載せられない。
彼女は荷を地面へ並べさせた。担架布二枚、竿四本、毛布六枚、乾いた薪、湯の革袋、止血布。全員が持ってきた物を一つずつ声にし、誰の背へ移すかを決める。谷へ下りるなら両手を空けなければならない。薪を半分だけ橋のたもとへ油布で残し、帰路の目印に白布を結んだ。
「これは置いていくんですか」
薪を背負っていた兵が聞く。
「捨てない。戻りに拾う。いま必要なのは、向こうへ運べる手だ」
門なら、荷も人も石輪の前へ揃えればいい。門のない道では、一つ持つたびに、別の何かを置いていく選び直しが続く。
「引き返すか」
兵の一人が聞いた。
「戻れば、北門まで二刻」
「渡れば、落ちる者が出ます」
セラは谷の上流を見る。木々の間に古い荷道があるはずだ。地図には細い点線でしか残っていない。冬前に使われたという話も聞かない。
門を開ければ早い。けれど、門が開かないときに行く道を残すため、彼女は班を出した。ここで引き返せば、その判断がただの時間の浪費になる。
「荷道を探す。担架は分ける。足を折った人がいるなら、こちらから担いで戻る」
「雪が来たら」
「来る前に着く」
言い切ったが、雲は低い。隊の中には、町の門から先へほとんど出たことのない若い兵もいる。セラが先頭へ立つと、皆が続いた。
荷道は藪の奥にあった。荷車の轍は消えているが、石を積んだ低い壁が道の端を示している。二人が先に枝を払い、後ろで担架用の竿を削る。道は上り下りを繰り返し、谷へ近づくたびにぬかるんだ。
隊列の間は、すぐに開いた。先頭が倒木を越えたころ、最後尾はまだ泥へ沈んだ革袋を引き上げている。セラは曲がり角ごとに立ち止まり、最後の兵の顔を見てから進んだ。急ぐ者が待つ時間を失えば、帰りは担架の前後が離れる。
古い荷道は一度、谷へ向かって消えた。積み石の先が雨で削られ、幅一歩ほどの水路になっている。兵が枝を投げると、たちまち下流へ流れた。深さは膝ほどでも、底の石が動いている。
「腰縄を一本にするな。三人ずつだ」
セラは上流の木へ縄を回し、先頭の兵を渡らせた。次が竿を一本、頭上へ掲げて渡る。水が脛へ当たるたび身体が下流へ向く。三人目が縄を引き、足の向きを戻す。
湯の革袋が水へ落ちた。栓は閉じていたが、兵が慌てて拾おうとして膝を崩す。セラは背の帯を掴み、岸へ引いた。
「袋は流しても、人を追わせるな」
革袋は岩へ当たり、手の届かない藪で止まった。帰りに温かい湯を渡す人数が一人分減る。兵は唇を噛んだが、セラは拾いに戻らせなかった。代わりに残った袋へ印をつけ、誰へ先に渡すかは向こうの傷を見て決めると伝えた。
伝声石が鳴る。
『北門、聞こえますか』
ユナの声だった。
「こちら徒歩班。橋が落ちた。荷道を回る」
『橋の向こうに、青い布を結びました。見える?』
セラは木立の先を見る。霧の向こうに、細い青が揺れていた。案内紐だ。
「見えた」
『大きい岩のところで右。左は水が増えてる。村の人が見てきた』
「村の人?」
『オルダさん。網を直す人。川が変わったとき、道も見てる』
声の後ろで、子供が数を読むのが聞こえた。ひとつ、ふたつ、と間を空け、ユナが同じ数を言い直している。
「何を数えている」
『歩ける人。門で先に出す人と、道で来る人を分けてる。足を折った人は戸板に乗せた。熱のある人は、子供と離さない』
「こちらは担架二床。湯は五人分になった。川で一つ失った」
隠さず言うと、向こうで短い相談が始まった。ユナだけではない。低い男の声と、窯の前らしい女の声が重なる。
『熱のある人と子供に湯を使う。ほかは集会所で温めてから出る。青い布、三つに増やすね。三つ目から下へ降りないで。土が動いてる』
セラは手元の地図を見た。そこには橋から先の道が一本、細線で引かれているだけだ。いま届く声のほうが、昨夜の雨を知っている。
「ユナ、石の声が切れたら、布を結ぶ位置を誰へ渡す」
『ルクさん。薪割りの人。斧で木に三本傷をつける。暗くても触れば分かるようにする』
「分かった。こちらも白布と、木へ一筋の傷を残す。帰りは二つの印をたどる」
救助を待つ側が道を教え、救助へ行く側が戻る印を返す。伝声石が黙っても、互いの手が森の中へ残る。
ミレアには、台帳にいない住民がいる。けれど今は、こちらの兵より道を知っている。
「オルダさんへ伝えて。負傷者を運ぶ竿を作ってる。川べりへ降りられる場所を教えてほしい」
『聞いてくる』
石が黙る。
セラは兵へ向いた。
「門が開くかは分からない。向こうの案内に従い、ここから人を受け取る」
「住民の言葉を信じるんですか」
「橋の状態を先に知らせた。こちらは知らなかった」
若い兵は頷き、竿の先へ布を巻いた。
岩のところで右へ折れると、道は急に細くなった。足元の土が崩れ、先頭の兵が片膝をつく。セラはその肩を掴む。
「止まれ。荷を下ろせ」
前へ進むほど、担架を運ぶ者の足場がなくなる。兵が斜面へ杭を打ち、縄を張る。リオなら、この縄の結び方では体重を支えないと言うだろう。セラは結び目を自分で引き、別の結びへ変えた。
最初の杭は、引くと泥ごと抜けた。二本目を木の根の裏へ打ち、三人が腰を落として確かめる。セラは自分の腰縄を結び、空の担架を横向きにして斜面へ滑らせた。竿の先が崖へ当たらないよう、上と下から別々の縄で向きを変える。
「帰りは人が乗る。今の揺れを覚えろ」
上側の兵は縄を緩めすぎ、担架の足が泥へ刺さった。二度目は下側が強く引き、布床が山側へ傾く。三度目でようやく水平になった。早く進むための練習ではない。負傷者を載せてから初めて失敗しないため、空のうちに失敗している。
斜面の下には、ユナが言った三枚目の青布があった。その先は土が新しく割れ、木の根が空中へ出ている。布がなければ、古い道の続きを追って崩れた側へ踏み込んでいた。
若い兵が青布へ触れかけ、手を止めた。
「残します。帰りにも要る」
セラは頷き、その隣へ白布を結んだ。青は向こうから来た印、白はこちらから来た印。二つ並んだ木から先だけが、いま往復に使える道になる。
青い布が、さらに先で二つ揺れた。
ユナではない。灰色の外套を着た年配の男が、崩れた土手の向こうから腕を上げている。後ろには、薪を抱えた若者がいる。
「オルダか」
「そうだ」
男の声は、谷の水音に負けなかった。
「門から来る連中か」
「歩いてきた」
「なら、こっちの道を使え。左の坂は崩れる。けが人は四人、子供は二人。火はまだある」
「門は」
「光ったり消えたりしてる。ユナが石のそばにいる」
セラはようやく息を吐いた。生きている。目の前の男は、救出される名簿の一行ではない。雨の増水を読み、こちらへ道を示している。
「門が開いたら、先に負傷者を出す。開かなければ、ここで受け取る」
「分かってる」
オルダは、こちらの担架を見た。
「人は、台帳にいるか」
唐突な問いだった。
「いない者もいると聞いた」
「なら、門の向こうで置いていかないでくれ」
「置いていかない」
約束は、門を開くことより簡単には言えなかった。定員が足りず、火が尽き、別の異常が起きたらどうする。それでも、セラは撤回しなかった。
「ここへ来た人を、名簿の有無では分けない。門がだめなら、この道で連れて帰る」
オルダは短く頷いた。
「なら、担架を一つ貸せ。ルクと俺で先に戻す。あんたらは、もう一床がこの坂を上がるよう縄を張ってくれ」
セラは担架を渡した。案内を受けるだけでなく、向こう側から負傷者を運び出す手が加わる。ルクは背負っていた薪を乾いた岩陰へ置き、代わりに竿の前を担いだ。
「集会所まで、どれくらい」
「歩ける者で半刻。戸板なら倍だ。ユナが途中へ子供を出さないよう止めてる」
「なぜ」
「兄貴の声を聞いて、走りたがった子がいる。道がつながるまで待たせるってさ」
セラは青布の先を見た。救出されるはずの少女が、こちらの到着を待つだけでなく、急いで道へ出ようとする人を止め、順番を作っている。
兵たちは斜面の上下へ分かれた。戻るオルダたちの足音が消える前に、二本目の縄を張る。担架が上がる線と、歩ける者が下りる線を分け、交差する場所へ見張りを置いた。門が一度開けば、向こうの人数は減る。開かなくても、この道から運び始められる。
そのとき、伝声石が三度鳴った。北門からの合図だ。
『青麦回り、停止。救出門の準備へ移る』
セラは空を見上げた。雲の切れ目はない。だが、門のない道は、もう向こう側までつながっている。




