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俺に魔法は使えない。でも、なぜ王国の結界が落ちたのかは説明できる  作者: pj.masta


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第2巻 第三十二話 リオの署名

蓮人は、リオが紙へ署名する手を見ていた。


 青年の字は、荷札の太い文字よりもさらに大きかった。ユナ・ハーゼの兄、と一度書き、そこで止まる。名を添えれば、家族の側に立つことになる。けれど下の欄には、薬便を先行させ、救出は一刻半後に開始する、とある。


「この紙、俺が書いたことになるのか」


「なります」


 ノアが答えた。


「ただし、リオさんが薬便を決めたことにはなりません。家族側が、理由と中止条件を確認したことになります」


「違いが分からない」


「違いが出るように書きます」


 ノアは欄外へ追記した。決定者はミナ、セラ、薬師、荷役責任者。家族確認者はリオ。説明を受けたミレア側の代表名は、まだ空欄だ。


「署名しない選択もあります」


 蓮人が言うと、リオはペン先を紙から浮かせた。


「しないと、救出が遅れるのか」


「遅れません。署名がないことを含めて、判断を進めます」


「じゃあ何のためだ」


「あとで、家族へ知らせなかったことにしないためです」


 それは、署名の重さを軽くする答えではなかった。蓮人は、無理にうなずかせるための紙にはしたくなかった。


 リオはしばらく黙り、紙の下端へ名を書いた。最後の払いが、少しだけ震えた。


「ユナが名簿を持ってる。向こうの人が誰を待ってるかも、聞く」


「はい」


「薬を先にしたこと、帰ってきたら俺からも話す」


 蓮人は返事をせず、ノアへ目を向けた。ノアはその言葉を、欄外には書かなかった。約束を紙で縛るより、帰ってきたユナに話せる形で残すほうがいい。


 署名した紙は、机の引き出しへ入れなかった。ノアが二枚写し、原本を会館前の掲示板へ留める。風にめくれないよう、上だけでなく四隅を蝋で押さえた。決定者、確認者、薬便を先にする理由。その下へ、救出順を大きな字で書く。


 一、薬箱一台を王都荷役門へ送る。


 二、到着確認後、青麦回りの接合を外す。


 三、救出門を一度だけ開く。同時に徒歩班は門を使わずミレアへ向かう。


 見物人の後ろから「家族が薬に同意したのか」と声がした。リオの肩が動く。蓮人が答える前に、リオは掲示板の自分の名を指した。


「俺が決めたんじゃない。理由を聞いた。救出を後回しのままにしない条件を確かめた」


 ノアはその言葉を、署名の横へは足さなかった。すでに家族確認者と書いてある。いま必要なのは、紙にない説明を本人だけへ背負わせず、決定者が同じ内容を言うことだった。


「薬便の先行は私たちが決めた」


 セラが人垣の前へ出た。


「薬箱の到着確認が取れなければ、予定時刻を越えて救出を待たせない。薬は陸送へ切り替える。リオの署名は、その条件を家族へ伏せなかった証明だ」


 薬を待つ男が、掲示の開始時刻を読んだ。


「鐘が二つ鳴る前に薬が着かなければ、救出へ移るんだな」


「そうです」


 薬師が答えた。救出を待つ家族と薬を待つ家族が、同じ時刻を指で確かめる。納得した顔ばかりではなかった。それでも、遅れたときに誰へ尋ねればよいかは見える。


 門前の作業場は、夜明け前の冷気より熱かった。ガルドたちが石輪の下の接合金具を外し、荷役は薬箱を王都側の車へ積み替えている。青の冷却灯は点いているが、白の残留灯が一つ、古い接合へ残っていた。


「まだ触るな」


 ガルドの怒鳴り声が飛ぶ。


 若い職人が慌てて手を引いた。白い灯は、切り離された部材へ魔力が残っている印だ。消える前に外せば、残った流れが別の石輪へ逃げる。


 予定を紙にしたとき、蓮人は三班を並べた。薬便班はガルドと荷役、救出門班はミナとテオ、徒歩救出班はセラが率いる。けれど紙の線だけでは、同じ時刻に始めるべき作業と、前の作業が終わるまで待つべき作業が混ざって見える。


「三班の開始時刻を、もう一度」


 蓮人は尋ねた。


 ノアが三つの砂時計を横一列へ置いた。会館の時計と門役詰所の鐘は半目盛りずれていたため、開始を「夜明け」とだけ書かなかった。徒歩班は第一の砂を返した時刻。薬便班は第二の砂が落ち、白の残留灯が消えた時刻。救出門班は薬箱の到着確認後、遅くとも第三の砂が落ちきる時刻。掲示板にも同じ砂時計の絵を描いてある。


「薬便班は白の残留灯が消えてから、王都荷役門を一度だけ開ける」


 ガルドが言う。


 昨夜までに、白布の西門横道と青布の南門返りは地域側の接合から外してある。いま戻すのは、黒布を巻いた王都遠隔受け口だけ。それも王都荷役門へ薬箱一台を送る間に限り、到着確認と同時に手動で落とす。


 次に切る予定の青麦管は、その先にある上流起点だった。まだ床下のどこを通るか現物で特定できていない。今日の一度だけの接続で予定外の門が応じたなら、その反応と原本を照らして場所を絞り、地域側の横道とは別に切る。


「徒歩班は、いま出る。橋まで二刻、門より遅いが、戻り道になる」


 セラが答える。


「救出門班は?」


 ミナは石輪の縁へ膝をついていた。長い髪を布でまとめ、記録板を横へ置いている。


「薬箱が現役門へ到着し、王都側の赤の確認灯が消えたあと。自律迂回がこちらを探す余地を消してからです」


「中止条件は」


「ミレア門の青の警報灯が赤へ変わる。ユナさん側から人が増えたと知らせる。テオさんが指定以外の名を読み上げる。そのどれかです」


 テオの肩が硬くなった。


「読むのは、俺ですか」


「門役として読むのはテオさんです」


「僕が」


「あなたしかできないからではありません。旧名を混ぜないで、門番号と現行名を分けて読めると、私たちへ示したのがあなたでした」


 テオは唇を噛んだ。怖がっている顔ではある。だが、逃げたいだけの顔ではなかった。


 蓮人は、彼の前へ小さな札を置いた。ミレア、ではない。現行の地名は地図から消えている。門番号七、救出用の片方向接続、受け入れ先はラグナ北門外の仮設台、とだけ書かれている。


「地名を言わないんですね」


「向こうの人が、その地名を名乗っているなら、別に聞く」


 ノアが言った。


「門へ渡す言葉は、いま確認できるものだけにします」


「もし、名前を呼ばないと開かなかったら」


「開けません」


 ミナの返事は短かった。


 蓮人は、自分の胃が固くなるのを感じた。ユナが向こうにいる。名前を足せば開くかもしれない。それでも、現場で確かめていない条件を積み足せば、同じことがまた起きる。


 伝声石へ、ユナから名簿の一部が送られてきた。彼女は到着者の名、年、傷、連れている荷を、案内所の紙の裏に書いていた。字の端が濡れて滲んでいる。寒さか、手当ての水かは分からない。


 最後に、ミレアの住民だと名乗る者が三人いた。


 オルダ、漁網修理。サナ、パン焼き。ルク、薪割り。


 王都台帳にない名だと、ノアが小声で言った。


「救出順へ入れますか」


 リオが聞く。


「入れます」


 セラが先に答えた。


「ここにいる人間を、台帳の有無で分けない」


「定員を超えたら」


「徒歩班が受け取る。門から一度に出せる人数を、向こうへ伝える」


 リオは名簿の写しを抱えた。


「順番は、ユナが決めるのか」


「向こうの負傷者を知っているのはユナさんたちです」


 蓮人が言う。


「こちらは受け入れと中止を決める。向こうの順番を、こちらだけで決めません」


 青の冷却灯が一度、強く明滅した。ガルドが工具を上げる。白の残留灯が、ようやく薄くなっていく。


「薬便班、あと三分で接合を外す!」


 荷役の声が走った。


 セラは外套の襟を引き上げ、徒歩班へ合図した。


「橋で待たない。崩れていれば谷を下りる。二刻ごとに伝声石を鳴らせ」


「了解」


 ミナはテオへ札を渡した。


「救出門は、薬便が着くまで開けません。その間、札を声に出さず読み返してください」


 テオは札を受け取った。ふだんなら最後に添えていた旧名を、今日は紙のどこにも置いていない。


  遠くの荷役門で、警報鐘が一度だけ鳴った。


  開始時刻が、砂時計の砂より先に近づいてきた。


 蓮人は作業場を一巡した。誰かへ指示を足すためではない。いまは、作業者が自分で止まれるかを見なければならない。


 ガルドの班では、若い職人が金具を布で拭いている。白の残留灯が消えたところへ、誤って手袋を置かないよう、石の脇に木杭を打った。ディーンの班では、二台目以降の荷札へ赤い紐が結ばれている。先頭の薬箱だけが動き、ほかは動かさない印だ。セラの班では、兵が渡河用の縄を腰に巻き、伝声石の合図を二人ずつ復唱していた。


 誰もレントへ「これでいいですか」と聞かなかった。


 そのことに安堵しながら、彼は少しだけ落ち着かなかった。前なら、全員の手元を見て、足りない印を配り、順番を決めただろう。だがそれをすれば、知らないうちに他人の判断を自分のものにしてしまう。


「蓮人さん」


 ノアが呼んだ。王都へ出す連絡文の最後に、言葉が足りないという。


 薬便を一台に限定すること。王都側が受け取りを確認するまで次を開けないこと。救出門は片方向で一度だけであること。途中で赤の警報灯がつけば、中止すること。


「これで足りますか」


「連絡としては」


 蓮人は答えた。


「ただ、向こうが急いでいる理由も一行入れてください。薬箱の中身と、待っている人がいること」


「相手は門役です」


「門役だからです。箱を急がせるだけなら、無理に早く通そうとするかもしれない」


 ノアは短く書き足した。北街治癒院、急性熱の患者。病名は書かない。必要なことだけを、見落とされない場所へ。


 リオの署名は、紙のいちばん下に残っている。蓮人はそれを見て、彼が同意したからではなく、家族へ説明する責任を引き受けたのだと思った。全員の納得を待つことはできない。それでも、誰が何を失うかを見えないままにして急ぐこともできない。


 砂時計の最後の砂が落ちた。ミナが手を上げる。薬便班の開始を告げる合図だった。

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