第2巻 第三十一話 待つ順番
リオは、治癒院の待合に置かれた長椅子の端で、名前を指で追っていた。
妹の名は紙のいちばん上にあった。その下に、熱の下がらないトーマ老人、夜明けまでに煎じ薬を替えなければならない幼い姉妹、傷へ膿が回りかけた荷車引きの名が続く。薬箱は一つしかない。三門を切り離す作業が始まれば、王都から届くはずの薬便は二刻遅れる。その二刻を、ミレアへ通じる救出門のために使う。
「読めるか」
薬師が、湯気の薄い椀を置いた。
「字は読める」
「名前のほうだ」
返事が遅れた。紙の名前は、荷札より重かった。荷札なら、傷んだ箱を後ろへ回せる。届かなかった荷主には頭を下げ、次の荷車を探せばいい。ここにいる者は、順を後ろへ回しただけで、次の荷車が来るまで息をしているとは限らない。
妹だけを先にしろと言うために、リオはここへ来たのだと思っていた。救出門を先に開ければ、ユナのいる場所へ近づける。薬を待つ人には申し訳ないが、ユナは十六だ。あの子は、知らない場所で子供を抱えたまま待っている。
その像が、紙の文字を押しのけて何度も浮かぶ。
「ユナさんの場所は、まだ確定していません」
薬師が言った。
「わかってる」
「だから先に門を開けても、すぐ抱いて帰れるわけではない」
「それでも近づける」
「そうだな」
否定されなかったことが、かえって苦しかった。
リオはトーマ老人の名の横にある印を見た。昨夜、薬師がつけた小さな黒丸だ。薬を遅らせた場合、朝まで持つかどうか分からない者につける印だと聞いている。
「この人は」
「若いころ、門の石積みをしていた。若い連中が来ると、必ず仕事を見に行く」
「会ったことがある」
荷役所の屋根が壊れたとき、通りから「縄を引きすぎるな」と怒鳴られた。声だけ聞いた。あれがトーマだったのかもしれない。
リオは黒丸へ置いた指を引いた。指先に紙のざらつきが残る。ユナの名へ戻そうとしても、今度は幼い姉妹の姓で止まった。同じ姓が二行続き、妹のほうにだけ小さく「姉と同じ椀」と添えてある。薬が一人分遅れれば、姉妹のどちらを先に飲ませるかまで家族が選ぶことになる。
待合の母親が、咳をした子の襟へ手を入れた。汗で濡れた布を替えたいのだろうが、替えは膝の上の一枚しかない。リオと目が合うと、母親は名簿を隠せとも、薬を先にしろとも言わず、ただ子の身体を自分の外套へ包み直した。
リオの腿は、立ち上がるつもりもないのに震えていた。荷車なら重い側へ肩を入れれば進む。ここでは、どちらへ肩を入れても、反対側に人が残る。
「妹の順番を先にしたら、この人はどうなる」
薬師は椀を持ち直した。
「私は、助からないとは書かない。だが、別の薬で朝までつなぐ。痛むし、効くかも分からない」
リオは紙を折らなかった。折れば、ユナの名だけが上へ残る。下にいる人が見えなくなる。
「救出門を後にしたら」
「ミレア側の人は、待つ」
「それだけか」
「向こうに水と火があればな」
なければ、と薬師は言わなかった。
待合の奥で、子供が咳をした。母親が背を撫でる。ここにいる誰も、ユナの名前を知らないのだろう。それでも、薬箱が遅れることだけは知っている。自分たちのせいで遅れると言われたら、どんな顔をするのか。
「俺が決めることじゃない」
「そうだ」
薬師はあっさり答えた。
「だが、決める席で、お前がいないことも違う」
リオは紙を持って立った。
立った途端、膝が伸びきらず、長椅子の角へ手をついた。薬師は支えなかった。代わりに名簿の下端を押さえ、紙が床へ落ちるのを防いだ。リオは息を一度吐き、ユナの名を内側へ折り込まず、全員の名が見える広さのまま持ち直した。
会館では、ディーンが荷札を机いっぱいに広げていた。青い縄の束、黒黄の縄、薬箱の封印紐。セラは壁の地図へ短剣の鞘で三本の線を引いている。誰も声を荒げていない。だから、もう決まったのだと思った。
「救出は後ですか」
リオの声で、全員が顔を上げた。
セラは紙を寄せた。
「薬便の切替を先にする。王都側の荷役門を物理的に外してから、救出門を開く。一刻半の差だ」
「一刻半」
「その間、ミレア側へ徒歩班を出す。門が失敗しても、帰り道を一本残す」
妹のいるところへ、すぐには行けない。
言葉が口元まで上がった。ユナを先にしろ。薬は陸路でも運べる。だが陸路は八刻かかる。そしてその間に黒丸の名が、紙から消えるかもしれない。
「患者の名簿を見た」
自分でも、何を言うのか分からないまま続けた。
「救出が後になる理由を、家族へ説明できるようにしてくれ」
セラの眉がわずかに動いた。
「説明はする」
「俺じゃない。決めた人が」
「する」
「患者の家族にも、ミレアの人にも。薬を先にするなら、誰がどれだけ待つか、隠さず言ってくれ」
ディーンが荷札を伏せた。
「薬箱を先に通すのは、組合の損を減らすためではない。そこも書く」
「薬が遅れたら助からない人がいるからだ」
「それも書く」
リオはユナの名がある紙を机へ置いた。指が離れない。
「俺は、薬便を先にすることに反対しない」
口にした瞬間、胸の中で何かが裂けた。
「ただし、救出は『あとで考える』じゃない。何刻後に始めるか、いま決めろ」
「薬便の確認灯が青へ戻り、荷役門の白の残留灯が消えた直後です」
ミナが答えた。
「見込みは一刻半。越えたら救出を優先して、薬は陸送へ切り替える」
「誰が止める」
「私とセラさん」
「薬の人が死んでも?」
「その可能性があるから、薬師が席へ入ります」
薬師はうなずいた。リオの背後に立っていたらしい。
そこでようやく、リオは自分が一人でユナの順番を奪い合っていないと知った。奪われる側の顔も、遅らせる側の顔も、ここにいる。
伝声石が鳴った。
ノアが受け取る。石の向こうから、掠れた子供の声が聞こえた。言葉ではない。三回、石を叩く音。間を置いて一回。
「誰ですか」
ノアが呼ぶ。
『……ラグナの、案内所?』
リオは椅子を蹴って近づいた。
「ユナ!」
返事の代わりに、向こうで誰かが息を呑む音がした。
『兄ちゃん? 聞こえる?』
声は弱いが、ユナだった。
「聞こえる。どこだ」
『ミレア。たぶん。ここで名簿にした人は、私を入れて残り九人。先に四人、門から出した。ここの人が三人、一緒に歩く。子供が二人……名前、書いたから』
紙を擦る音が、伝声石の奥で続いた。
『水はある。薪が足りない。足を折った人が一人いる。あと、ここの人が、門を開けないでって言ってる』
「なぜ」
『知らない荷が来るから。人が増えると、火が足りない』
リオは言葉を失った。ユナは助けを求めながら、門を開けるなと言った。自分がその場にいたら、そんなことを言えただろうか。
『名簿、読んでいい?』
「読むな。持っていろ。迎えに行く」
『うん。でも、最初に薬を通すんでしょ』
誰かが伝えたわけではない。ユナは、向こうの大人たちから聞いたのだろう。古い門の石が、こちらの声を少しだけ漏らしている。
「……そうなる」
『わかった。じゃあ、火を消さないで待つ』
石の明かりが消える直前、ユナはもう一度言った。
『来る人の名前、間違えないでね』
伝声石の表面には、煤のような黒い跡が残った。
リオはその跡を指でこすらなかった。向こうの火の煤か、石が焼けた跡かも分からないものを、都合よく妹の手がかりにしたくなかった。
会館の外には、まだ夜を越えられない荷が並んでいた。羊乳の桶を毛布で包んでいる女が、作業場の明かりを見つめている。門が止まれば乳は酸っぱくなる。子供に渡す朝の分が減る。それでも彼女は、薬箱が一台目になると聞いて、桶を後ろへ引いた。
「先にするものがあるんだろ」
女はリオへではなく、自分の雇い主へ言った。
その一言で、薬を先にすることが急に正しいものになるわけではない。女の子供が乳を待っているかもしれない。けれど、待たせる相手の顔があることを、リオは忘れずにいられた。
彼は荷役所へ戻り、青縄の束を一つずつ数えた。救出門に混ざればいけない縄。薬箱へ使う黒黄の縄。陸送車の車輪がぬかるんでも切れない太縄。親方は何も言わず、隣で結び目を確かめていた。
「ユナのこと、聞けたか」
「聞けた」
「なら、手を動かせ」
ぶっきらぼうな声だった。だが親方は、薬箱用の縄をリオへ渡した。妹を待つ者に、薬を遅らせない仕事を任せた。
結び目を締めるたび、リオは向こうでユナが結んだ青い紐を思った。人が迷わないための結び目と、荷が落ちないための結び目は似ている。引く力が違うだけだ。待つ順番も同じなのかもしれない。誰かだけを先に引けば、別のどこかが外れる。
夜明け前、彼は薬箱の横に小さな板を打ちつけた。荷主名ではなく、到着後に薬師へ渡す者の名を書いた。トーマ老人、北街の治癒院。
「そんな札、規則にないぞ」
親方が言う。
「到着側で、誰が受け取るか分かるように」
「余計な札で迷わせるな」
リオは板を外しかけた。
「ただし、門へ読む札にはしない。荷車の外だけだ」
親方は続けた。
リオは頷いた。門へ渡す言葉と、人へ渡す目印を混ぜない。その違いを、今朝の作業で覚えることにした。




