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俺に魔法は使えない。でも、なぜ王国の結界が落ちたのかは説明できる  作者: pj.masta


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第2巻 第三十話 妹か薬か

リオは、治癒院の患者名簿を読めなかった。


 紙を開くと、名前の横に刻が書いてある。次の薬が必要になる刻。薬が切れた時に出る症状。家から治癒院まで歩けるか、担架がいるか。字は細く、荷札よりずっと多い。


 最初の名はトーマだった。


 リオは顔を知っている。門前でいつも木笛を売っている老人だ。薬が切れると、手が震えて笛を落とす。次の名は、乳飲み子を抱えた女。三人目は、足の傷から熱を出している荷役の親方。


 ユナの名は、その紙にない。


 守備隊の別紙にある。最後に見た時刻。赤い帽子。青い案内紐。ミレアに残ったという帰還者の証言。


 二枚の紙を並べると、どちらも人の名なのに、片方だけが荷の遅れに結びついているように見えた。


「選べ」


 誰かが強く言ったわけではない。


 セラは、止める必要を説明した。ガルドは、三つの接合を外す間は薬便も救助門も同時に動かせないと示した。ミナは、半端に動かせばまた別の門へ流れると話した。ディーンは、薬を待つ者の名を出した。


 そして最後に、全員の目がリオへ来た。


 妹を待つ家族として。


 荷の流れを知る荷役として。


 停止席に名前を載せた者として。


「俺が決めるのか」


 声がかすれた。


「一人で決めさせるためではない」


 セラが言う。


「でも、あなたの優先を聞かずに、私たちがユナさんを後ろへ置くこともしない」


「後ろへ置く」


 リオは守備隊の紙を握った。


「そう言えば、置けるのか」


「置けない」


 セラの答えは早かった。


「だから、言葉を濁さない。接合を外す二刻の間、救出門は開けない。薬便も開けない。外したあとに、どちらを先に通すかは、一度に一つしか選べない可能性が高い」


 ディーンが、患者名簿を指で押さえた。


「薬を先にすれば、ユナさんを待たせる。救出を先にすれば、ここにいる人を待たせる」


 その言い方に腹が立った。ユナを“ユナさん”と呼ぶ声が、丁寧すぎた。けれど、名簿の人たちも、紙の中だけの名前ではない。


 トーマが木笛を落とす手。


 親方が荷車へ怒鳴る声。


 乳飲み子が母親の胸で泣く音。


 リオは知っている。知っているから、紙を破れなかった。


「ユナは、自分が最後でもいいって言う」


 口から出た言葉に、自分で吐き気がした。


「だからって、俺が決めていいのか」


 ミナが、試験で使った空の薬箱を机に置いた。割れた蝋印はそのままだ。


「決めるのは、優先だけではありません」


「何が違う」


「誰が待つか。待つ間に何をするか。遅れた時、次に誰が止めるか。全部を一緒に書きます」


 リオは首を振った。


「書いても、ユナは戻らない」


「書かなければ、薬を待つ人も見えなくなります」


 レントは、机の端に立ったまま何も言わなかった。代わりに、二枚の紙の間へ新しい紙を置いた。


 そこには、まだ何も書かれていない。


 窓の外で、王都からの命令時刻を告げる鐘が鳴った。日没まで、あとわずかだ。


 ガルドは白い布の楔を持ち、ミナは停止柄の前へ立つ。セラは兵へ、薬便用の馬車を止めるよう手を上げた。ディーンは患者名簿を閉じない。


 リオは紙の余白へ、ユナの名を書いた。守備隊の別紙から写すのではない。薬を待つ者の名と同じ紙へ、自分の手で書いた。どちらかを選べと言われても、もう片方が紙の外へ消えないように。


 セラは羽根ペンを渡さず、ただ待った。ディーンも患者名簿を閉じない。ガルドの槌は宙にない。誰も、家族の答えを急かす言葉を足さなかった。


 外で、薬便の馬が石を鳴らした。西門では鈴が風に一度揺れた。二つの音が、別々の待ち時間を告げていた。


 妹か、薬か。


 選べと、全員が待っていた。


 リオは窓の外へ目を向けた。南街へ出る薬便の馬車は、まだ動けずにいる。御者は手綱を短く持ち、馬の鼻先から白い息が漏れる。二刻待てば、馬は走れる。だが薬を待つ人の身体が、二刻待てるとは限らない。


 西門の方には、毛布を抱えた兵が見える。戻った四人のうち、子どもは眠ったままだ。ユナは向こうで、動けない人から先に縄を持たせたという。そんな妹を、兄だけが先に呼び戻せと言ってよいのか。


「ユナがどう言うかは、決める理由にならない」


 リオは自分へ言った。


「あいつが我慢するからって、待たせていいことにはならない」


 セラは頷いた。


「その通りです」


「でも、トーマが死ぬかもしれないのも、俺が知らないふりできない」


 ディーンは患者名簿を開いたまま、何も急かさなかった。さっきまで門を開けろと言っていた男が、いまはリオの返事を待っている。自分が言えば、優先が商人の都合に見えるとわかっているのだろう。


 ノアが新しい紙へ、二つの欄を書いた。


 救出先行。


 薬便先行。


 その下に、どちらでも共通する行を足す。


 陸送は止めない。救助の受け入れ班は待機。薬の遅れを患者へ伝える。門が別に応答した時点で、どちらも中止。


「これは、選ばなかった方を捨てる紙じゃない」


 ノアが言う。


「待つ間に、何をしていたかを残す紙です」


 リオは青い紐をほどいた。紐の端の小さな結びは、迷った子が握れるようにユナが作る形だ。ほどけば、戻せなくなる気がした。けれど、手首に巻いたままでは、ただ妹を理由にするだけだ。


 彼は紐を二枚の紙の間へ置いた。


「俺は」


 喉が鳴る。


「俺は、妹を先に助けたい」


 誰も驚かなかった。驚く方がおかしい。


「でも、妹を先にしろって署名は、まだできない」


 ガルドの手が、白い楔の上で止まった。ミナは何も言わず、停止柄を握り直す。リオは患者名簿の一番上へ指を置いた。


「ここにいる人の名前を、俺が読んでからにする。読んで、それでも救出を先にしろと言えるなら、言う」


 セラは彼の前へ紙を戻した。


「時間はありません」


「わかってる」


 リオは治癒院の方へ歩いた。誰かに止められると思ったが、セラは後ろから兵を一人だけ付けた。治癒院の中は薬草と湯の匂いが濃い。トーマは窓際の寝台で、片手に木笛を握っていた。目を開けているが、吹く力はない。


「リオか」


 老人は、掠れた声で言った。


「薬、来ないんだろ」


「まだ、わかりません」


「わからないなら、外で待つよりここで寝てる方がいい」


 笑おうとして、咳になった。リオは笛を拾い、寝台の脇へ置く。門前で、この老人が幼い子に一曲だけ吹いて小銭を受け取るのを、何度も見ている。薬は荷ではない。明日、笛を持つ指を戻すためのものだ。


 次の寝台にいたエナは、乳飲み子を胸へ抱き、眠らせようとしていた。赤子は熱で顔を赤くしている。


「薬が遅れるなら、私の分を減らしても」


「だめです」


 リオは思わず言った。


 エナは困ったように笑う。


「じゃあ、誰の分を減らすの」


 答えられない。親方の寝台からは、いつもの怒鳴り声ではなく、苦しい呼吸が聞こえる。門前でリオの縄の結びを何度も叱った男だ。けれど荷車が倒れた時、最初に肩を入れて助けたのもその男だった。


 治癒院を出ると、手のひらに笛の木の感触が残っていた。妹を助けたいと思うことと、この人たちを待たせてよいと思うことは、同じではない。リオはそれを、初めて身体で知った。


 青い紐のそばへ戻る。ユナなら、名簿を読めと言うだろう。自分の名前を最後にしても、ほかの者の名を消すなと言うだろう。それを妹の意思として使い、妹を後ろへ押しやることも違う。


 リオは患者名簿を両手で持った。紙が汗で柔らかくなる。救出先行と薬便先行の欄は、まだ白い。次の一行を読めば、白い紙のどちらかへ、自分の声が初めて落ちる。


 門前では、ディーンが馬車の御者へ水を渡していた。薬便を止める決定に反対した男が、今は馬が待つ間に弱らないよう飼葉を量っている。セラの兵は西門の毛布を数え、ミナは停止柄の側で白い灯を見ている。皆が自分の役を続けているから、リオだけが答えを遅らせているわけではない。


 それでも、次に口を開くのは自分だ。リオは名簿の端を親指で押さえ、最初の名の文字を追った。


 紙の上の名は、震えるほど小さい。それでも誰かの息を、今夜まで繋ぐ名だった。リオは唇を噛み、目を閉じなかった。声を選んだ、今。


 日没の鐘が、遠くで一つ鳴った。


 妹か、薬か。


 リオは患者名簿の最初の一行を、まだ声に出せずにいた。

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