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第六話 図面にない管

保守工房は、北塔の裏手にあった。華やかな魔導具店とは違う。壁には大小の輪金、革帯、弁、曇った測定石が並び、床には洗った部品を乾かすための砂が敷かれている。


 作業台は三つあった。


 使われているのは中央だけ。左の台には薄く埃が積もり、壁の工具掛けは人の形に空いていた。右の台には、持ち主の名らしい焼き印が残っている。削りかけの木製把手だけが、完成を待つように万力へ挟まれていた。


「他の職人は」


 蓮人が尋ねると、ミナは答える前にガルドを見た。


「いねえ」


 男は金属環から目を上げない。三人分の工房で、一人分の布が鳴っていた。


 左の台の引き出しには、摩耗した弁の形を写す木型が並んでいた。右の台の足元には、小柄な者に合わせた踏み台が残っている。


「片づけないんですか」


「持ち主が取りに来る」


「いつ辞めたんです」


「半年前だ」


 ガルドはそれ以上言わず、空いた台へ部品を置くこともしなかった。一人で三人分を担っているのではない。二人が戻る場所だけを塞がずにいるように見えた。


 工房の奥には、修繕待ちの札を下げた箱が積まれていた。市場の保冷箱、井戸の浄化弁、守備隊の携帯灯。北塔を優先するほど、町の小さな故障が棚へ残る。


「全部、あなたが直すんですか」


「急ぐ順にな」


「順番を決める人は」


「壊れた物を持ってきた奴が、自分が一番急ぐと言う」


 修理の遅れは職人の腕だけの問題ではなかった。仕事を選ぶ役割まで、一人の作業台へ置かれている。中央の作業台で、白髪交じりの男が金属環を磨いていた。


「帰れ」


 顔を上げる前に言った。


「まだ何も言っていません」


 蓮人が答えると、男は磨く手を止めた。


 太い指。爪の隙間に黒い油。左耳の後ろに古い火傷の痕がある。


「見ねえ顔だな」


「クゼ・レントです」


「肩書は」


「ありません」


「なら、なおさら帰れ」


「仕事を見せてください」


 男――ガルドの眉が動いた。


 ミナが一歩前へ出る。


「ガルドさん。北塔の冷却輪について聞きたいことが」


「術師様には、圧力計があるだろう」


「昨日の清掃後に、焦げた匂いがしました」


 磨く布が止まった。


「どこで」


「炉室側です」


「甘い匂いか、酸っぱい匂いか」


 ミナは戸惑った。


「焦げ臭いとしか」


「だから術師は役に立たねえ」


「教えてください」


 蓮人が言った。


「匂いで、何が違うんですか」


 ガルドは蓮人の手を見た。傷のない指。油の染みていない爪。


「甘けりゃ絶縁樹脂。酸っぱけりゃ冷却水に錆が混じってる。鼻の奥が痛けりゃ、魔銀線の被膜だ」


「昨日は、どれでしたか」


「俺が帰るまでは何も」


「帰ったあとの再始動で匂いが出た」


 ガルドは布を作業台へ置いた。


「塔へ行くぞ」


 北塔の入口には、結界庁の封鎖札が貼られていた。セラが守備隊の印章を重ねる。


「人命に関わる緊急確認だ。責任は私が持つ」


 封鎖札の青い文字が薄れ、扉が開いた。


 塔の中は涼しかった。


 石壁の内側を、淡い青の管が何本も走っている。中央の螺旋階段は上へ。冷却輪は地下にある。


 階段を下りるにつれ、低い唸りが足裏へ伝わってきた。


「これが水輪の音ですか」


「そうだ」


 ガルドは立ち止まらずに答える。


「音があるなら正常?」


「馬鹿言え。音があっても壊れる。いつもの音かどうかだ」


「いつもと比べて、いまは?」


「少し高い」


 ミナが耳を澄ます。


「私には同じに聞こえます」


「お前さんは毎朝、始動した直後しか聞いてねえ。これは昼の音だ」


 ガルドは石壁へ手を当てた。次に、床へ片膝をつける。


「振動は壁より床が強い。輪そのものじゃない」


「流路?」


「かもしれん。決めつけるな」


 蓮人は思わず笑った。


「何がおかしい」


「同じことを、よく言っていました」


「誰に」


「前の職場の人たちに。自分は守れませんでしたけど」


 ガルドは意味を聞き返さなかった。地下の炉室には、直径三メートルほどの金属輪が横倒しに収められていた。輪の内側を青白い水が走り、中央の黒い石柱を冷やしている。


 熱い。


 部屋へ入っただけで、頬が乾く。壁の測定石は緑色に光っていた。


「緑は正常ですか」


「入口温度はな」


 ガルドが答える。


「出口は?」


「こっちだ」


 輪の反対側へ回る。そこには測定石がなかった。


「測っていない?」


「昔はあった。六年前に割れた」


「交換は」


「申請した」


「その後は?」


「却下された。入口が正常なら問題ないとな」


 冷たい水が入っていることはわかる。だが、設備を通ったあとに、どれだけ熱を受け取ったかは測っていない。


 ガルドは工具袋から細い金属棒を出し、出口管へ当てた。反対側の端を耳の前へ寄せる。


「沸きがある」


「水が沸騰している?」


「管の内側で、小さな泡が潰れてる。流れが細い」


「圧力は正常です」


 ミナが壁の計器を見る。


「入口はな」


 ガルドはまた言った。


「停止して確認できないか」


 セラが問う。


「低出力に落とせば管を開けられる」


「沸いている確証は」


 ガルドは金属棒を差し出した。


「聞け」


 セラが耳へ当てても、表情は変わらなかった。


「私には水音と区別できない。守備隊の権限で塔を落とすには、測定値か、目視できる損傷が要る」


「その測定石を六年前に買わなかったのは代官庁だ」


「だからといって、根拠なしには止められない」


 セラはミナへ、携帯測定石で入口を再確認させた。数値は規定内だった。もう一度。変わらない。


 確証を得ようとする間に、出口管の継ぎ目が鋭く鳴った。


 熱い雫が噴き、点検箱へ落ちる。中に入っていた予備の記録紙が黒く縮れた。セラが蓋を閉じたときには、革手袋の表面が白く変色していた。


「私が遅らせた」


 セラは焼けた手袋を外した。手に傷はない。失われたのも予備紙だけだった。


 小さな被害だったからこそ、言い訳せずに認められた。


「次から音だけでも、確認中として負荷を下げる。停止とは分ける」


 ガルドは返事をせず、新しい布で出口管を包んだ。だが金属棒を、セラにも届く位置へ置いた。セラは棒をもう一度耳へ当てた。


「高い音の奥で、砂を転がすような音がする」


「それが泡だ」


「次から私でも聞き分けられるか」


「今日と同じならな。管の厚さ、流量、立つ場所が変われば音も変わる」


「では『泡の音あり』だけでは確証にならない」


「いつもの音と違うかを聞け」


 セラは部下へ、場所と姿勢まで描かせた。出口管の右側、継ぎ目から一腕、棒の先を上向き。次に聞く者が条件をそろえられるように。


 ガルドは接合部を指した。


「ここが白いだろ。熱を食った跡だ。昨日は指二本ぶん。今日は三本」


 ミナが札を定規代わりに当て、幅を記録する。確証は誰かの断言を待つことではない。違いを別の者が確かめられる形へ刻むことだった。


 出口管の下へ新しい受け皿を置き、乾いた布を四隅へ挟む。どこが先に濡れるかで、継ぎ目と管表面のどちらから水が出るかを分けるためだ。ガルドは一枚だけ自分で置き、残りをミナへ渡した。


「同じ厚さで折れ。違えば吸う速さが変わる」


 ミナが折り、セラが四枚を重ねて確かめる。蓮人は受け皿を置いた時刻を読んでもらった。一人の耳で聞いた泡が、布の濡れ方と温度でも検証できる観察へ変わる。


「これなら、あなたがいなくても確認できますか」


「漏れだけはな。音の違いはまだ無理だ」


 できる範囲を広げても、できない範囲は消さない。空いた二つの作業台が、その必要を示していた。


 四枚の布には、置いた者と確認した者の名を別々に書いた。濡れ方だけでなく、手順を再現できるかも試す。調査は部品を見るだけでなく、仕事を次の人へ渡せる形へ変える作業になった。


 蓮人は管の経路を目で追った。入口から輪へ入り、黒い石柱を一周し、出口から壁の中へ戻る。


 その途中。


 輪の裏側で、一本だけ色の違う細い管が分岐していた。


「あれは?」


 ガルドが黙る。


 ミナは首をかしげた。


「排水管では?」


「図面を見せてください」


 壁際の箱から、ミナが羊皮紙を広げる。蓮人には線の意味しか読めない。それでも、輪から伸びる管の数は数えられた。


 図面では、入口と出口の二本。


 現物には、三本ある。


「図面にない」


 セラが低く言った。


 細い管は石壁へ入り、炉室の外へ消えている。表面は比較的新しい。だが接続部だけは油と埃で汚れ、最初からそこにあったように偽装されていた。


 蓮人は管へ触れず、壁までの経路を歩いた。途中に留め金が五つ。三つ目だけ材質が新しく、ねじの頭に工具痕が残っている。床の砂には、管の下だけ細い筋があった。


「水漏れですか」


「水なら砂が固まる」


 ガルドが答える。


「これは拭いた跡だ。油か、結露か」


 ミナが布を近づける。甘い匂いがわずかに残った。


「絶縁樹脂?」


「決めつけるな。迎賓館の香油も似た匂いがする」


 セラは部下に、炉室の外壁を挟んだ反対側を確認させた。戻った兵士は、そこが北塔の備品庫だと報告した。


「備品庫の先は」


「古い連絡通路。その先は迎賓館の地下倉庫です」


 図面には、二十年前に封鎖とある。管が鐘楼へ向かうとは限らない。迎賓館へ向かうか、途中で上階へ折れるか、壁を開けなければわからない。


 蓮人は現物の分岐、留め金、拭き跡、壁の先にある部屋を、別々の項目で記録してもらった。一本の管を見つけても、用途まで見つけたことにはしない。


「いつ作られたんですか」


 蓮人はガルドへ尋ねた。


 老技師は答えない。


「昨日の清掃で、これを見ましたね」


「帰れ」


「何につながっているかだけでも」


「全員、塔から出ろ」


 ガルドの声が変わった。


 怒りではない。


 恐怖だった。


 その瞬間、床の振動が止まった。


 水輪の唸りも消える。


 静寂の中で、壁の測定石だけが緑色に光っていた。


「ミナ」


 セラが言う。


「結界は」


 ミナは携帯用の確認石を取り出した。


「出力、低下していません。すべて正常です」


 蓮人は、音を失った巨大な輪を見た。正常という言葉の下で、青白い水がゆっくりと止まっていった。

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